レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年11月5日
- 登録日時
- 2020/11/05 15:12
- 更新日時
- 2020/12/02 09:39
- 管理番号
- 県立長野-20-060
- 質問
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解決
愛知県の寺院にある古文書に記載の「松本真田信濃守ノ領分化道中其六万石ノ内多分ノ雲霞虫苗ヲ災ヒシ枯ノトス国中ノ■キ言之」について、ウンカの被害が発生した年代が天保期らしいが本当かどうか。地域が松本なのに真田信濃守と書いてあるので松本領か松代領か調べてほしい。
また、諏訪市唐沢山の寺の住職である徳住(とくじゅう)(徳本(とくほん)の弟子)が飢饉を治めたとのことだが、このウンカによる飢饉のことか知りたい。
- 回答
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天保期の松本領(藩主戸田氏)であると思われる。
1 天保期の松本領でのウンカの発生について
・『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 第2巻下』 東筑摩郡松本市・塩尻市誌郷土資料編纂会編 東筑摩郡松本市・塩尻市誌郷土資料編纂会 1968 【N233/10/2-2】
p.1167天保の飢饉の項
「天保の飢饉は三年から八年まで続き、天明の飢饉に次ぐ大きな飢饉であった。(中略)同六年も五月の大雨、八月五日・一三日の大風雨、一一月大雪積雪三尺と天候不順で、大豆と蕎麦だけが良く、うんかが発生し大不作となった。」
ただし、同資料p.1161の天明の飢饉の項には、「天明の凶作飢饉は同三年から七年まで続いたが、その原因は天候の不順であった。(中略)同四年も天候不順で七月七日大雨・洪水・害虫の発生があり、(後略)」との記載があり、天明期にも虫の被害があったことが分かる。
また、徳住については、p.1171に「領内の神社に対する災害除けの祈願が、領主側からも各村々でもおこなわれた。すなわち天保六年の六月二五日には、山家組の薄宮、保高組の穂高神社、村井宿の神明宮の神官が役所に呼び出され、二夜三日の勤行があり、村々庄屋・組頭一同も代表として出席し、天保四年六月、松本町の弥勒院で十七日間の気候立直りの祈祷が、同八年五月にも疫病流行のため城内で祈願がおこなわれた。」と記述があったが、徳住との関連は分からなかった。
・『松本市史 第2巻歴史編Ⅱ近世』 松本市 1995 【N233/106/2-2】
p.617 年表 「天保6 凶作 ウンカが発生し、大凶作となる」
p.615 天明期の年表には虫害の記載はなし
p.645
「丸山角之丞が『遺作書留帳』に「おだやかにして世上静かになる」としるすように、天保五年の暮れに人々はひと息つくことができ、正月をむかえた。六年はウンカが発生し、大被害をだした。神戸村では六年二十二日夜松明をたき、ウンカを追いだした。奈良井の鎮神社(木曾郡楢川村)へ代参し、拝殿前の左右の砂盛の砂を田にまいたり、水口に鯨の油の串をさして虫よけをおこなった。」
・『塩尻市誌 第2巻歴史』 塩尻市誌編纂員会編 塩尻市 1995 【N233/97/2】
p.858 天保七年の凶作の項
「天保五年は、前述したように豊作と記す記録があるほどで、人びとは、ほっと一息をついた。六年はウンカが発生し、また稲に大被害をうけた。そして、翌七年の大凶作を迎える。」
2 時代の特定について
享保17年の夏に西日本に大量のウンカが発生したが、信濃では虫害はおきなかった、または、信濃の被害についての記載がなかった資料
・『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 第2巻下』 東筑摩郡松本市・塩尻市誌郷土資料編纂会編 東筑摩郡松本市・塩尻市誌郷土資料編纂会 1968 【N233/10/2-2】 p.1159
・『日本農書全集 第67巻 災害と復興2』 太田 富康 [ほか]編 農山漁村文化協会 1998
【610.8/14/67】p.162-167、194-196
・『長野県史 通史編 第5巻 近世2』 長野県編 長野県史刊行会 1988【N209/11-4/5】
p.179-182
・『信濃の風土と歴史 19巻』長野県立歴史館編 長野県立歴史館 2013【N209/34/19】p.58
3 場所の特定および藩主の確認について
以下の資料を調査しましたが、松代藩内の飢饉は浅間大焼けや天候不順が原因となっており、ウンカの発生や虫害の被害の記述は確認できなかった。
・『長野市誌 第4巻 歴史編 近世2』 長野市誌編さん委員会編 長野市 2004 【N212/318/15】
p.179-184、196-197
・『長野市誌 第15巻 総集編』 長野市誌編さん委員会編 長野市 2004 【N212/318/4】
p.269-270
・『信濃の風土と歴史 7 食 とる・つくる・たべる』 長野県立歴史館 2001 【N209/34/7】
p.44-45 年表
『長野県史 近世史料編 第7巻(3)』巻末に松代藩主一覧、『長野県史 近世史料編 第5巻(3)』に松本藩主一覧を確認する。真田氏が松本藩主だった記録は確認できなかった。
4 飢饉を治めたとされる徳住(とくじゅう)(諏訪市唐沢山にある阿弥陀寺の住職)について
以下の資料にて、徳住(とくじゅう)は徳本(とくほん)(1758年に生まれた浄土宗の念仏聖で文化13年に信濃を巡錫している(『松本の念仏塔と念仏行事』より))の弟子であり、長野県にも念仏塔が残っているという記述は確認できたが、飢饉を治めたという記述は確認できなかった。
・『松本の念仏塔と念仏行事 調査報告書』 松本市教育委員会 2016 【N387/91】
・『豊科町史 歴史編・民俗編・水利編』 豊科町誌編纂委員会編 豊科町誌刊行会 1995 【N232/59/2】 p.726-727
- 回答プロセス
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1 郷土の歴史的事項なので、松本や松代の郷土資料や誌史を調べ、「虫害」や「ウンカ」のキーワードで調べるが、見当たらず。
2 当館契約データベース「ルーラル」〔最終確認2020.11.18〕にて、「虫害」「江戸」のキーワードで検索すると『現代農業』の記事の中に『日本農書全集』に詳しいことが記載されていることが書かれており、災害の巻の『日本農書全集 第67巻 災害と復興2』に享保年間に西日本でウンカが大発生したことを確認。年代と地域を改めて確認する必要があることを確認。
3 書架にて『長野県史 近世史料編』の北信(松代藩)と中信地区(松本藩)の災害史料を確認するが、記述なし。キーワードを「災害」や「飢饉」でも調べることにする。
4 「長野県市町村史誌目次情報データベース」〔最終確認2020.11.18〕にて地域を指定して「飢饉」「天保」で検索し、『松本市史 第2巻歴史編Ⅱ近世』や『塩尻市誌 第2巻歴史』にてウンカの記述を確認する。他の時代の災害や飢饉の原因を併せて確認するとともに、地域を変えて検索し、『長野市誌』や『長野県史』にて、松代藩で発生したの災害やその原因も確認する。
5 『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 第2巻下』の天保の飢饉の項目を確認し、回答を発見する。
6 『長野県史 近世史料編 第7巻(3)』巻末に松代藩主一覧、『長野県史 近世史料編 第5巻(3)』に松本藩主一覧を確認する。
<調査済み資料>
・『長野市誌 第13巻 資料編 近世』 長野市誌編さん委員会編 長野市 1997 【N212/318/13】
・『松代藩庁と記録 松代藩「日記繰出」史料叢書 2』 国文学研究資料館史料館編 名著出版 1998 【210.08/シリ/2】
・『長野県史 近世史料編 第7巻(3)北信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1982 【N209/11/7-3】
・『長野県史 近世史料編 第5巻(3)中信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1974 【N209/11/5-3】
・『諏訪市史 中巻 近世』 諏訪市史編纂委員会編 諏訪市 1988 【N241/69/2】
・『諏訪史 諏訪の近世史 』 諏訪教育会編 諏訪教育会 1966 【N241/6/4】
- 事前調査事項
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村人の頼みにより、徳本の弟子で、諏訪市の唐沢山にある寺の住職である徳住がこの飢饉を治めたとのこと。
- NDC
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- 中部地方 (215)
- 農業 (610)
- 参考資料
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東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会 編 , 東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会. 東筑摩郡松本市・塩尻市誌 第2巻 下. 東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会, 1968.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I077161372-00 -
松本市/編集 , 松本市. 松本市史 : 近世 第2巻−〔2〕. 松本市, 1995.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I013614938-00 -
塩尻市誌編纂委員会/編集 , 塩尻市誌編纂委員会 , 塩尻市. 塩尻市誌 第2巻. 塩尻市, 1995-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I072197917-00
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東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会 編 , 東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会. 東筑摩郡松本市・塩尻市誌 第2巻 下. 東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会, 1968.
- キーワード
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- ウンカ
- 雲霞
- 虫害
- 飢饉
- 災害
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000289174