レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/11/21
- 登録日時
- 2015/03/15 00:30
- 更新日時
- 2015/03/17 09:05
- 管理番号
- 千県東-2014-0011
- 質問
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解決
ワルシャワ条約機構とコメコンはどうなったのか。いつなくなったのか、その経緯を知りたい。
- 回答
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概略を知りたいとのことなので、『世界大百科事典』、『ロシアを知る事典』を調べたところ、該当の記述があった。
●ワルシャワ条約機構
『世界大百科事典 30 ル-ワン』(平凡社 2007)【資料1】
p614「冷戦終結にともない1989年後半、ポーランド、ハンガリーに始まり、〈ベルリンの壁〉崩壊をへて、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアへと進んだ〈東欧革命〉にソ連はまったく干渉せず、それどころか驚くべき速さで東欧諸国における共産党支配体制と東側の〈社会主義共同体〉自体が崩壊した。こうして91年7月1日ワルシャワ条約機構首脳会議で同機構を解体する議定書が調印され、消滅することになった」
『ロシアを知る辞典』(川端香男里[ほか]監修 平凡社 2004)【資料2】
p864「89年6月にゴルバチョフが東欧諸国の内政に干渉しないことを明言すると、同年後半に、同機構に属していた国で次々と社会主義体制が瓦解した。その後、これらの国はソ連を刺激しないように注意を払いつつ、ワルシャワ条約機構から離脱する動きをすすめた。90年9月に、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と一体化することが決まっていた東ドイツ(ドイツ民主共和国)がワルシャワ条約機構から離脱した。91年1月に、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーの3国は外相会議を開き、7月1日までに同機構の軍事組織を、1年以内に機構をすべて解体することを提言する共同声明を発した。こうして91年7月プラハに6カ国代表が集まり、同機構を解体する条約に調印した」
●コメコン(COMECON)
『世界大百科事典 10 コウフ-コン』(平凡社 2007)【資料3】
p518「70年代の石油危機後の世界経済の基調変化に対応しての、各国間の利害の相違があり、かつ75年以降のソ連の対東欧エネルギー資源供給価格引上げにより東欧諸国の対ソ交易条件が悪化した。さらに85年から86年にかけての原油価格暴落後はソ連経済の衰退が加速したため、同盟国間の経済関係が弛緩し、89年以降はコメコンは事実上その意義を失っていた」
『ロシアを知る辞典』【資料2】
p277「89年の〈東欧革命〉とソ連における政治経済危機は、双方の側でCOMECONに対する関心を弱め、ソ連解体直前の91年6月、ブダペストで開かれた第46回総会で解散が決議され、42年に及ぶ歴史を閉じた」
- 回答プロセス
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百科事典とロシア関連の事典をブラウジング。
- 事前調査事項
- NDC
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- ロシア (238 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『世界大百科事典 30 ル-ワン』(平凡社 2007)(2102078241)
- 【資料2】『ロシアを知る辞典』(川端香男里[ほか]監修 平凡社 2004)(2101679309)
- 【資料3】『世界大百科事典 10 コウフ-コン』(平凡社 2007)(2102078045)
- キーワード
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- ワルシャワ条約機構(ワルシャワジョウヤクキコウ)
- コメコン(コメコン)
- COMECON(コメコン)
- 経済相互援助会議(ケイザイソウゴエンジョカイギ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 一般
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000169011