レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年04月18日
- 登録日時
- 2016/01/28 13:16
- 更新日時
- 2016/05/19 11:45
- 管理番号
- 埼熊-2015-179
- 質問
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解決
『川本町史 通史編』のp271に記載されている以下の菅沼村領主について知りたい。
ア 城和泉守昌茂-幕府代官領(元和元年上知)
イ 大久保丹波守忠正
- 回答
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下記資料に記述があった。
ア 城和泉守昌茂
『寛政重修諸家譜 第8』(続群書類従完成会 1965)
p350-358 「平氏 繁盛流 城(じょう)」
p351「昌茂(まさもち)」の項あり。「元和元年凱旋ののち、昌茂軍令を犯せしを咎められ改易せられ、近江国石山寺に屏居し、寛永三年赦免ありて江戸に赴くのとき、七月二日信濃国にをいて死す。年七十六。法名宗仲。武蔵国熊谷東漸寺に葬る。」とあり。
『川本町史 通史編』(川本町 1989)
p273-274 「西山十右衛門昌俊」の項に「もとは飯頼と称したが、父昌茂のとき武田信玄の命により西山に改めたという。昌俊ははじめ信玄及び勝頼に仕え使番となった。天正十年(1582)武田氏滅亡後に徳川氏へ属し、子昌勝と共に長久手の戦いに供奉した。」とあり。
『戦国大名家臣団事典 東国編』(新人物往来社 1981)
p385 「城景茂(じょうかげもち)」に「二郎左衛門・和泉守・意庵。貞茂の子。初め越後上杉氏の家臣で玉虫氏と称す。永禄初年に信玄に仕え城氏に改む。足軽大将衆騎馬十人足軽三十人持。歿年未詳。子和泉守昌茂は天正十年(1582)、武田氏滅亡後、徳川氏に仕える。」とあり。
イ 大久保丹波守忠正
『寛政重修諸家譜 第11』(続群書類従完成会 1965)
p352-354 「藤原氏 道兼流 宇都宮支流 大久保」
p352-353 「忠正(ただまさ)」の項あり。「亀之助 喜六郎 丹波守 従五位下 母は長勝が女。(略)寛永十年二月七日二百石の地を加へられ、廩米をあらためて五百石を知行す。(略)」とあり。
『武蔵田園簿』(近藤出版社 1977)
p193 「一 高百四拾五石三斗六升三合 大久保丹波守知行 管(菅)沼村
内 拾三石五升三合 田方
百三拾弐石三斗壱升 畑方」とあり。
大久保丹波守の知行として、ほかに「榛沢郡明戸村 五拾八石三斗弐升弐合」があり。
解説に「武蔵田園簿」成立時期は慶安二(1659)年から三(1650)年とあり。
- 回答プロセス
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埼玉県の地誌を調査する。
『武蔵国郡村誌 第10巻』(埼玉県立図書館 1954)
p13 「菅沼(すがぬま)村」の項あり。「管轄沿革 古昔成田下総守の所領たり天正十八庚寅年徳川氏関東総領の後旗下士城和泉守の采地となる後徳川氏の直轄となり代官之れを支配す弘化元甲辰年大久保豊後守の采地となる明治元戊辰年武蔵知県事の管轄となる」とあり。
『埼玉県の地名 日本歴史地名大系 第11巻』(平凡社 1993)
p779「天正7(1579)年8月18日の聖護院門跡御教書(篠場文書)によると、長命寺(現江 南町)に「菅沼」の旦那職などが安堵されている。田園簿には管沼村と誤記され、田方一三石余・畑方一三二石余、旗本大久保領。」とあり。
『埼玉大百科事典 3』(埼玉新聞社 1974)
p141「すがぬまむら」の項あり。「古くは萱苅庄、藤田郷、忍領に属す。中世は成田氏支配、江戸時代は天領ののち、旗本領(城氏)、天領を経て幕末は旗本領(大久保氏)。」
城和泉守昌茂、大久保丹波守忠正を調査する。(回答資料)
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本 (291 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『川本町史 通史編』(川本町 1989)
- 『戦国大名家臣団事典 東国編』(新人物往来社 1981) , ISBN 4-404-01072-9
- 『寛政重修諸家譜 第8』(続群書類従完成会 1965)
- 『寛政重修諸家譜 第11』(続群書類従完成会 1965)
- 『武蔵田園簿』(近藤出版社 1977)
- キーワード
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- 菅沼村
- 城和泉守昌茂(ジョウ イズミノカミ マサモチ)
- 大久保丹波守忠正
- 深谷市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187637