■塩谷氏の没落後の関谷氏について
塩谷氏の没落後の関谷氏について、当館所蔵資料より関連する記述を確認できた項をお知らせします。
・『塩原町誌』(塩原町誌編纂委員会/編 塩原町教育委員会 1980)
p.42-45「第二章 塩原・箒根の領主について (2)箒根の領主と支配其の居館」の項に、関谷家の系譜が「関系譜」として記述されています。関内匠助定国が佐竹家へ下ったこと、関四郎吉国が東葛城村を領し子孫が帰農したこと、関谷兼光の子孫信濃が大田原晴清の下で室井又右衛門を称したことが記述されています。
p.184「第七章 御公儀御巡見日記帳 (1)天保九年 御公儀様御巡見日記帳(関谷村室井家)」の項に、関谷宿形成の初めは1590年、大田原晴清が関谷兼光の子を室井又右衛門と称させた頃が妥当であるという記述があります。
・『佐竹家臣系譜』(常陸太田市史編さん委員会/編 常陸太田市 1982)
常陸国時代の佐竹家の家臣の系図を作成、収録した資料です。
p.250-254 関氏の系図が記載されています。
・『栃木県市町村誌』(平井恒重/編 栃木県町村会 1955)
p.525「鹽谷郡 箒根村 名所旧蹟」に館跡及古戦場の項があり、天正年間上杉景勝と宇都宮国綱との戦いの際、関谷太郎兼光の子孫関谷佐内という者が上杉景勝に加勢し宇都宮国綱に亡ぼされたという記述があります。
・『角川日本地名大辞典 9』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984)
p.523「せきや 関谷<塩原町>」の項に、天文18年大田原晴清が関谷兼光の子孫信濃を室井又右衛門と称させて重用したという記述があります。
■関谷三郎右衛門と塩谷氏家臣の関谷氏の関連について
関谷三郎右衛門は『喜連川町史第3巻 資料編3』のp.294に記載されているとのことですので、該当部分の記述を以下の資料にて確認しました。
・『喜連川町史 第3巻(資料編 3)』(さくら市史編さん委員会/編 さくら市 2007)
当館所蔵の資料を調査したところ、残念ながら関谷三郎右衛門と塩谷氏家臣の関谷氏の関連についての記述は確認できませんでした。当館で確認しました資料は以下の通りです。
・『栃木県史 史料編 近世8』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1977)
・『伊藤 長島 人見 関谷家古文書の解読 昭和62年度』(大田原市古文書学習会/編、発行 1988)
・『大田原藩中士鑑』(著者、出版社不明)
・『喜連川町史 第6巻(通史編 1)』(さくら市史編さん委員会/編 さくら市 2008)
・『矢板市史』(矢板市史編集委員会/編 矢板市 1981)
・『塩原の里物語 塩原温泉千二百年の歴史』(「塩原の里物語」編集委員会/編,島遼伍/監修 塩原町文化協会 1998)