レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年01月23日
- 登録日時
- 2024/02/28 15:32
- 更新日時
- 2024/03/21 09:26
- 管理番号
- 京歴-716
- 質問
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解決
平家が京都と伊勢・伊賀の往来で渋谷街道を用いていたことが分かる資料はあるか。
- 回答
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以下の資料に次のような記述がある。
なお、渋谷街道(しぶたにかいどう、しるたにかいどう)は洛中と山科を結ぶ街道で、渋谷越えともいう。
<平家と伊勢・伊賀の関係について>
『国史大辞典, 12 : ふ-ほ』(資料①)
p.458「平氏」「伊勢平氏」
伊勢平氏とは、坂東平氏の一部が伊勢方面に進出したもの。
初期における平氏の勢力圏は鈴鹿郡以北の北伊勢を中心としたこと、さらに伊賀に進出して、承徳元年(1097)に平正盛が伊賀国所領を六条院に寄進して中央政界に進出したことが記されている。
平氏は、伊勢・伊賀に本拠を置いたが土着せず、京都に活動の足場をもって農村との間を往復していた。
<渋谷街道について、平家と渋谷街道の関係について>
『東海道(附渋谷街道)・大津街道西国街道(附丹波街道)(京都府歴史の道調査報告書 ; 第1冊)』(資料②)
p.11 渋谷街道の区間や高低差について記載あり。
p.37 「渋谷街道については、(中略)平安時代後期に平家が六波羅に拠点を構えると、東国へ向かう際、東海道に接続する最短経路として重視されたようである。」とある。
『京都と京街道 : 京都・丹波・丹後(街道の日本史 ; 32)』(資料③)
p.37 「平氏の館が建てられ、また鎌倉幕府の探題が置かれた六波羅は、渋谷越えで京都に入った六条川東一帯に位置する。」
渋谷越えは、平氏政権から鎌倉時代に重要視されたことが記されている。
『京の古道を歩く』(資料④)
p.112
渋谷越えの道筋については、『山城名跡巡行志』を引用して、五条橋―清閑寺―北花山―厨子奥―御陵までの一里十町で、花山からは来栖野―勧修寺―小野―醍醐への別道があったとしている。
『京羽二重織留』では、三条の粟田口よりも渋谷越えの方が、東へ向かう本来の順路であったという記述があることを紹介している。
- 回答プロセス
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交通の歴史や京都の地誌の資料をブラウジング。
交通関係の辞典や地名辞典に関連する記述はなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 交通史.事情 (682)
- 参考資料
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- ①国史大辞典編集委員会編『国史大辞典, 12 : ふ-ほ』吉川弘文館、1991 (当館請求記号:||210.033||Ko53||12)
- ②京都府教育委員会文化財保護課編『東海道(附渋谷街道)・大津街道西国街道(附丹波街道)(京都府歴史の道調査報告書 ; 第1冊)』京都府教育委員会、2022 (当館請求記号:K0||682.162||Ky6||)
- ③水本邦彦編『京都と京街道 : 京都・丹波・丹後(街道の日本史 ; 32)』吉川弘文館、2002 (当館請求記号:K0||682.162||Mi95||)
- ④増田潔著『京の古道を歩く』光村推古書院、2006 (当館請求記号:K0||291.62||Ma66||)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 所蔵調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000346684