レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年11月22日
- 登録日時
- 2022/11/22 14:59
- 更新日時
- 2023/03/02 10:10
- 管理番号
- R004-015
- 質問
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解決
秩父往還のうち、飯能を通るルートについて記載のある資料が見たい
- 回答
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下記資料を提供した
『さいたま歴史街道』pp.179~
『関東の道 『関東の道』発刊20周年記念』 pp.352~
『秩父往還いまむかし』pp.18~
『秩父甲州往還』pp.11~
- 回答プロセス
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郷土に関する問い合わせのため、郷土資料を中心に調査した。
検索キーワードを「秩父往還」「旧街道」「秩父+巡礼道」とし自館OPACにて検索を行う。
吉本富雄『さいたま歴史街道』 (1990, 埼玉新聞社)
pp.179~「秩父往還-吾野道」に「吾野道の道筋は次のようである。〔日本橋〕-〔四谷〕-〔所沢〕-〔飯能〕-〔吾野〕-〔正丸峠〕-〔芦ヶ窪〕-〔大宮町〕」との記述あり。
pp.180~「所沢から飯能-吾野-大宮へ」に『秩父順拝図絵』の記述に従って吾野道の概況を記載している。
文中で紹介されている『秩父順拝図(秩父巡拝図絵)』を自館OPACと埼玉県内図書館横断検索で検索するも所蔵なし。
関東建設弘済会『関東の道 『関東の道』発刊20周年記念』 (2005, 関東建設弘済会)
pp.352~「埼玉県/秩父往還・巡礼の道 山道は安らぎの里に至る」に「三本あった秩父への道 (前略)そして第三の道が、内藤新宿から青梅街道、田無、飯能、吾野を経由。正丸峠を越えて、秩父に至る吾野通である。現在の国道299号。西武鉄道秩父線とほぼ並行している。」との記載あり。
飯野頼治『秩父往還 いまむかし』 (1999, さきたま出版会)
pp.18~ 三 吾野通りに「「吾野通り」は、甲州街道の内藤新宿からわかれた青梅街道の田無が出発点。これより所沢、入間、飯能、吾野を経て、七六〇㍍の旧正丸峠を越えて秩父へ入る道である。秩父からは熊谷通りの秩父往還と合い、雁坂峠を越え、再び甲州街道に接続していたので、「甲州裏街道」の名があった。」との記載あり。また、道筋にある「正丸峠」「いぼ水」「坂氷」「こまった池」「山神宮と惣円寺」についての記載と、pp.21に吾野通りの略図あり。
埼玉県立博物館『秩父甲州往還 歴史の道調査報告書 第十一集』 (1990, 埼玉県教育委員会)
pp.11~ (二)江戸化時代の文献から見た道筋には「(前略)『新編武蔵風土記稿』に収録された入間・高麗・秩父各郡の「正保年中改定図」である。ここでは、所沢方面から秩父大宮へ至る道が二筋描かれている。一つは、所沢から入間川村へ出て広瀬→平松を通り中山に達し、そのまま名栗谷に入って山伏峠を経て横瀬から秩父大宮に至る名栗通りである。もう一つは、平松→中山の間で北上し、高麗川沿いに高麗→鎌倉峠を越えて、山伏峠で名栗通りに合流する吾野通りである。この段階では、名栗通りと吾野通りとが中山・飯能付近でいまだ連絡されていないのが特徴的である。「元禄年中改定図」でもこの区間に大きな変更はない。(中略)享保から天保期にかけての「忍藩割役名主公用日記」(『横瀬町誌』資料編五・六・七)に収録された代官手代や幕府普請役人の先触のうちある程度道筋のわかる十二例である。それらをまとめると、基本的な道筋としては、内藤新宿→中野→田無を経て埼玉県域に入り、所沢→黒須と続く。その後、笹井の渡しで入間川を越えると、直接中山へ向かうものと飯能へ入るものとの二つに分かれる。どちらをとってもその先で合流し、高麗川添いの道を吾野→芦ヶ久保→横瀬→秩父大宮へと入った。先触には「我(吾)野村」という名称がよく出てくるが、この村名は『新編武蔵風土記稿』にはみえない。おそらく中世以来の我(吾)野郷の中心地で交通上の要地でもあった坂石町分をさすものと思われる。この先触の検討により少なくとも享保期までには、飯能方面から吾野通りへ入る道が一般化していたことがわかる。秩父大宮以降について記載された先触は少ないが、上田野→日野→白久を経て贄川に入り、新大滝→古大滝→落合→麻生→栃本へと続いた。(中略)飯能では高麗横町のつきあたり、すなわち双柳方面から町の中心部へ入ってきた道が吾野通りと名栗通りに分岐する付近に所在する小川家が問屋場であったと伝えられている。飯能の町場としての機能が、中山から現在に市街地へ移った元禄期以降に馬継場としての機能が整えられたものと思われる。(後略)」との記載あり。
pp.18~ 三 道筋の確定と現状に所沢市から秩父市・雁坂峠に向かう道筋と現状について写真とともに詳細に記述されている。また、ここで説明された道筋がpp.43~pp.50の地図に記載されている。
【直接の回答にはならないが参考とした資料】
飯野頼治『秩父 ふるさと風土図』 (1982, 有峰書店新社)
pp.182~ 「旧正丸峠は、知知夫国が武蔵野国の一部に編入されると、武蔵国の国府(現在の東京都府中市)より秩父に入る峠道として大いに利用されました。(中略)特に江戸時代は「吾野通り」と呼ばれ、江戸と秩父を結ぶ重要な峠路として(中略)芦ヶ久保村の初花から旧正丸峠への山道にはいると、「左、子ノ権現、江戸 右、名栗、八王子」と刻まれた追分の道標と呼ばれる江戸時代の古い石碑がいまでも残されています。」との記載あり。
pp.183下部に簡易な旧正丸峠の地図あり。
埼玉県立博物館『秩父往還 歴史の道調査報告書 第六集』 (1986, 埼玉県教育委員会)
pp.10 一 秩父往還の名称に「(前略)又一条は江戸より田無・所沢を経て、飯能・上我野より小丸峠を越大宮へ至る、是を我野通りと唱ふ、南北する一条は多摩より当郡名栗村へ係り、山伏峠を越て芦ヶ窪・皆野・金崎・日野沢・金沢より、児玉郡阿久原村を経て上州緑野郡鬼石村へ達す」との記載はあるが、「本報告書は、(中略)熊谷通りを大勝した調査の報告である。」とある通り、以後は熊谷通りのことについてのみ記載されている。
【調査したが記載のなかった資料】
歴史と民俗の博物館『特別展 にっぽん歴史街道 江戸の街道 絵図でたどる宿場と関所』 (2014, 歴史と民俗の博物館)
飯能青年会議所『飯能なんでも大全集』 (7983, 飯能青年会議所)
太田巌『秩父往還 武田家外伝』 (1988, 新人物往来社)
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道 明日を拓く二十一世紀の新往還』 (1998, 山梨県道路公社)
井上光三郎『秩父巡礼道マップ&ガイド 迷わず歩ける札所めぐり』 (2002, 幹書房)
大久根茂『秩父の峠』 (1988, さきたま出版会)
- 事前調査事項
- NDC
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- 運輸.交通 (680 10版)
- 歴史 (200)
- 仏会 (186)
- 参考資料
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吉本富男 編 , 土屋皓生 写真 , 吉本, 富男, 1925-2019 , 土屋, 皓生, 1943-. さいたま歴史街道. 埼玉新聞社, 1990.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002096518-00 , ISBN 4878891165 -
関東建設弘済会/編 , 関東地方道路広報連絡会議/協力 , 関東建設弘済会 , 関東地方道路広報連絡会議 , 関東建設弘済会 , 関東地方道路広報連絡会議. 「関東の道」発刊20周年記念 : 1985~2004. 関東建設弘済会, 2005-03.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I058927792-00 -
飯野頼治著 , 飯野, 頼治. 秩父往還いまむかし. さきたま出版会, 1999. (さきたま双書,)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I001735595-00 , ISBN 4878910739 -
埼玉県立博物館/編集 , 埼玉県立博物館 , 埼玉県立博物館. 秩父甲州往還. 埼玉県教育委員会, 1990-00. (歴史の道調査報告書 : 第11集)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I079618070-00
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吉本富男 編 , 土屋皓生 写真 , 吉本, 富男, 1925-2019 , 土屋, 皓生, 1943-. さいたま歴史街道. 埼玉新聞社, 1990.
- キーワード
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- 道
- 巡礼道
- 往還
- 秩父往還
- 埼玉県-飯能市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000324486