レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年03月18日
- 登録日時
- 2014/03/18 11:22
- 更新日時
- 2015/03/28 08:23
- 管理番号
- 2009-0140
- 質問
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解決
大竹孤悠・大竹新助について調べているところですが、郷土の山形との関係性がわかりません。孤悠は米沢市、新助は鶴岡市出身です。それぞれ山形ではどのような生活をしていたのでしょうか?
- 回答
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1 大竹孤悠について
次の資料①と資料②の「あとがき」に、ご自身の少年期についての記述がなされています。資料③は、20年ぶりに帰省した故郷での紀行とあわせて、昔日の思い出が記されています。
資料① 句集『望郷』の「あとがき」から抜粋
「私の生家は、米織で知られてゐる米沢で、昔からの半士半工の紺屋であった」
「私が、はじめて俳句を作ったのは、尋常四年の時だった。日露戦争がたけなはで、勝いくさの号外に、みんながわき立ってゐたのを覚えてゐる。」
「学制が変わって、高等二年から尋常六年になって、新築の南部小学校に移ったが早熟だった私は、文学好きな中学生らとばかり遊んで、一角の文学少年気取りでゐた」
「Sといふ、とりわけ仲のよい友達が出来て『米沢日報』を根城に、(小川)未明ばりの文章や、自由詩や、短歌など、いろいろなものを書き立てて投稿した」
「十四才の秋、進学勉強のための不得手な鉄棒から落ちて、胸を強打したのが原因で、肋膜を病ってしまった私は、十五才の春早々に、雪深い郷里の寒さを避けるため、浅草馬道五丁目の二天門の近くにゐた、姉をたよって上京した」
資料② 句集『歓喜』の「あとがき」から抜粋
「少年時代に體をこはして、青春といふものをほとんど経験せずに、うらぶれた漂泊の中に人となったわたくしは、つねに孤獨でひとりぼっちであった」
資料③ 紀行文集『郷山惜春図』の冒頭部分
「故郷を出て二十年、そのかみは、うらぶれの身の、再は故郷の地を踏むまいとさへ思ったのだったが、それが、はるかな旅の空の日立に住拠を得てはや二十年・・・・・・」で始まる紀行文集。20年ぶりに帰省を果たした著者の昔の思い出や望郷の想いなどが書き記されています。
2 大竹新助について
資料④『庄内文化芸術名鑑』には
「写真家。随筆家。鶴岡市鷹匠町生れ。東京都狛江市和泉に居住。朝陽第一小学校、鶴岡中学を経て、明治学院大学の社会科を卒業した。(後述)」とあります。
資料⑤『続 現代山形の百人』には
「コンプレックスと私」と題して、十人兄弟姉妹の末子であったこと、父は、明治中期から昭和初期まで、鶴岡の町長や市長をした人であったこと、母はことに、私を大切に育ててくれたこと、私だけ特別扱いされるので、兄たちの眼には、わがままに見え、兄たちのそういう眼を大変きらったことなどが記述されています。
資料⑥『月刊グラフ山形 No9 昭和52年4月号』には
「ふる里は遠きにありて -東京からのメッセージ」という随筆が掲載されており、
「郷里鶴岡の早春を思うとき、私はきまって、雪解けの道を思い出す」という文言が初めの方にあって、旧制県立鶴岡中学校の時、春3月に各自油揚げ1枚さげて山へ“油揚げ汁会”に出かけたこと、5月には孟宗汁会を催したが、鶴岡ではミソのほか酒粕を入れること、もう国を出てから、40なん年になった今でも、この竹の子の粕汁の味がなつかしいこと、小学校の時、自主的に絵や工作などを出品して
展覧会を開催したことなどが記載されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 詩歌 (911 9版)
- 写真 (740 9版)
- 参考資料
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- 資料①句集 望郷/大竹孤悠/1961(Y911.36/オオ)
- 資料②句集 歓喜/大竹孤悠/1954(Y911.36/オオ)
- 資料③郷山惜春図/大竹孤悠/1964(Y914.6/オオ)
- 資料④庄内文化芸術名鑑/長南寿一編/1982(k281.03/チョ)
- 資料⑤現代山形の百人 続/育英出版社/1980(k280.3/イク/2)
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資料⑥グラフ山形 No9/東北出版企画/1977(ks051/グラ/:107704)
※( )は当館の請求記号です。
- キーワード
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- 大竹孤悠
- 大竹新助
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000150724