レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2011/08/03 02:00
- 更新日時
- 2011/08/03 18:37
- 管理番号
- OSPR10120020
- 質問
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解決
大阪府および周辺地域で「胡粉(ごふん)」製造が開始された時期、場所、製造方法、利用状況や流通の様子、またその変遷について分かる資料があれば教えてください。
- 回答
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(1)『絵具染料商工史』 大阪絵具染料同業組合編 大阪絵具染料同業組合 1938
p555-562「大阪胡粉屋考」
製造開始の時期と場所について、長くなりますが引用します。
「口碑によれば、寛永年間石切在の後藤久右衛門なる人が、附近の渓流を利用して水車を起したが、その子七右衛門の代になって水車動力利用の胡粉製造が開始確立したといはれているが、当時原料は何処から供給をうけたかといふと、無論記録も文献も煙滅しているが、現に近傍に尚散在している古代の貝塚遺跡の貝殻を発掘採取して利用加工したのではなかったらうか、それが抑も胡粉製法の発足であったらうと想察するといふのであって、常識判断からしても海辺に遠いその頃としては交通のあまり発達していない徳川時代においてこの大和境に接近した中河内に胡粉製法といった事業が発達したとは思はぬし、且つ東京で製造した通銘七ツ判と稱する胡粉が、遺棄推積した蛤の貝殻を原料として、むかしの豊島郡の橋場や千束村あたりで主として精製された事実と綜合してもこの推定は大した誤認ではなからうといふのである。」
また、河内以外の大阪での製造については、「大阪の胡粉屋といへば主として絵具屋配下の製職業であったものと想察せられ、しかも絵具屋としての仕入方面が遠く芸州広島地方から搬入せられたほかに、近く河内胡粉として現在の府下中河内郡大戸村石切地方にも主産地を控へていたことから推せば、商取引の点はともかく製造そのものはあまり大したものでなかったらうと考へるのである。」とあります。
利用状況については、「胡粉の用途はペイントが流行する迄は、諸種の工芸に供せられ、例へば『人形屋・張子屋-玩具類、あつばりの紙』駿河半紙等に消費されたが、現在では僅かに絵画のほか、塗装防腐料として以外にも、人形の面及び塗料またはポテの如き充填料の一部のみとなった。尤も薬種屋方面では極上等の胡粉を牡蠣と稱して医薬に供し(後略)」とあります。
※本資料には、上記以外にも享保十七年の文献に残る胡粉の製法の記載等、大阪における胡粉について様々な記述があります。以下にご紹介する文献においても、当該資料からの引用が多くされておりました。
(2)『枚岡市史 第1巻 本編』 枚岡市史編纂委員会編纂 大阪府枚岡市役所 1967
「河内胡粉といえば、石切および日下地方所産にかぎられている」との記述があります。
その他、胡粉屋と大阪問屋との取引についてなど胡粉の流通についてもふれられています。
(3)雑誌『ひらおか』11号 1962
p4-8「胡粉工場と香盤 1.胡粉工場」
1962年における枚岡市日下の胡粉工場の見学記のほか、河内での胡粉の製造史(上記『絵具染料商工史』からの引用が多い)も記述されています。
(4)『東大阪市史 近代 1』 東大阪市史編纂委員会編集 東大阪市 1973
『枚岡市史 第1巻 本編』および雑誌『ひらおか』11号からの引用が主ですが、明治11年の胡粉製造法の調査にさいして作成された収支計算史料をもとにしたデータの掲載があります。
(5)『東大阪の歴史 大阪・市史双書』藤井直正著 松籟社 1983
p179-180「生駒の谷と水車工業」に
『日下谷や辻子谷(ずしだに)の一部でこの胡粉製造が行われていたが、中でも日下村の川口家は、江戸時代から昭和二八年まで続き、車屋源七がその襲名であった。昭和三〇年代まで工場の建物が残り、水車を動力とする歯車によって石臼を動かし、すべての作業を行うメカニズムが見られた。』との記述があります。
(6)『辻子谷の水車』石切史友会編集部編集 石切史友会 1993
p10「辻子谷の胡粉製造は、日本で最初で胡粉製造発祥の地とも言われています。」(注:原文のまま)との記述があります。
また、p12には明治39年に大阪府知事宛に提出された「胡粉製造事業承継届」に添付された胡粉工場の図面が掲載されています。
〔事例作成:平成23年3月29日〕
- 回答プロセス
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広辞苑によると、「胡粉」は顔料の一種。大阪府立図書館OPAC で「胡粉」「顔料」をキーワードにして検索したが、関連資料にヒットせず。NDCで「顔料」は576.9(顔料、絵具)。大阪府立図書館OPACで「絵具」「大阪」で検索し、(1)の資料がヒットした。
また、事前調査事項より、東大阪地域の市史から(2)~(5)の資料、OPACで「辻子谷」をキーワードに検索し、(6)の資料にヒットした。
- 事前調査事項
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山中進「明治・大正期の農家副業からみた八尾地域の変容」(『人文地理』29-6、5頁、1977年)によると、寛永年間、大戸村(現東大阪市)の副業としてはじまったとされています。
また、「生駒の川と恩智川」(『環境技術』vol.33,No.9,2004)によると、寛永年間、辻子谷(ずしだに)ではじまったとあります。
- NDC
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- 絵画材料.技法 (724 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 大阪
- 胡粉
- 絵具
- 染料
- 東大阪市
- 枚岡市
- 顔料
- 辻子谷
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000089539