レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年2月28日
- 登録日時
- 2024/10/22 14:39
- 更新日時
- 2024/11/05 08:58
- 管理番号
- 中央-1-0021760
- 質問
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解決
大宮空襲の犠牲者数(死者数)が知りたい。
大宮市史本文では1人だが、年表では17人になっている。正しい数字が知りたい。
- 回答
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大宮空襲での犠牲者数(死者数)については、
戦中全ての期間を通しての累計で言うならば、4月12日・4月14日・8月3日の死者数を合計した「17人」と言え、
大宮の市街地における空襲での死者数に限定するならば、4月14日の「10人」という数字になる。
ただし、これらの数字も、正確な数字と言えるかについては断定はできない。
- 回答プロセス
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まず、『大宮市史』の本文と年表で、記述と数字を確認。
<年表の記述・数字>
『大宮市史 別巻 1 補遺.年表』大宮市役所 1985年
p180
・1945年4月12日 米軍機が大宮上空へ飛来し片柳村へ4発の1トン爆弾を投下、1発が爆発して子供3人死亡
・1945年4月14日 午前1時ごろに大宮市宮町の市街地空襲、焼夷弾投下により10人が死亡、225戸・955人が戦災救助をうける
p181
・1945年8月3日 大宮市及び周辺に米軍機三波にわたり来襲、機銃掃射により馬宮村荒川河原で農耕中の3人と大宮市下町で待避中の女子1人が即死
この記述をまとめると、
4月12日の爆弾投下で、片柳村で3人死亡、
4月14日の空襲で、大宮市宮町で10人死亡、
8月3日の機銃掃射で、馬宮村・大宮市下町で4人死亡
となり、合計すれば、17人死亡ということになる。
<市史本文の記述・数字>
『大宮市史 第4巻 近代編』大宮市役所 1982年
p418
「4月12日約15機のB29が来襲した際、敵機が大宮上空に飛来(空襲警報午前9時20分発令・同11時40分解除)した。(中略)その際片柳村大字東新井の畑に一発(昭和43年日本大学校舎建設のため発掘)・同村大字御蔵へ3発(1発は爆発・2発は不発昭和51年2月発掘)、計4発の1トン爆弾(長さ182センチメートル・直径59センチメートル・オリーブ色)が投下された。爆発した一発は防空壕内にいた子供3人の幼い命を奪った。」
p418-419
「大宮の市街地における空襲は昭和20年4月13日夜から14日にかけてであり、大宮小学校の日誌によると10時55分空襲警報発令・翌朝2時30分空襲警報解除と記されている。この空襲は焼夷弾によるものでその被害は、「埼玉県警察史」によると、宮町・土手宿で全焼238戸・罹災者1208名・死者1名となっているが、実際は少くとも死者9~10名はいたものと思われ、負傷者も含めた死傷者数はかなりの数にのぼると思われるが不明である。」
p419
「(前略)同8月3日「午前10時35分頃、大宮市及びその周辺にP51が来襲、機銃掃射により北足立郡馬宮村の荒川河原に於て農耕中の3名、大宮市下町において待避中の女性1名各即死」となっている。この8月3日の空襲は三波にわたって行われ、大宮上空を旋回して大宮鉄道工場等を機銃掃射したものである。」
この記述を、上記年表の記述と対比すると、
4月12日と8月3日については、記述・死者数ともに一致するが、
4月14日の空襲については、本文では「宮町・土手宿で全焼238戸・罹災者1208名・死者1名となっている」という記述から分かるように「死者1名」というカウントで、ここに齟齬がある。(年表では10人)
また、「大宮市史本文では一人」というのは、この4月14日の空襲の死者数だけを取り上げたものと推察される。
ただ、この記述のすぐ後に「実際は少くとも死者9~10名はいたものと思われ、負傷者も含めた死傷者数はかなりの数にのぼると思われるが不明である。」と続いているとおり、「死者1名」というのは、参照元の「埼玉県警察史」からの数字で、実際の数字は違うのではないか、と市史本文上でも言及されてる。
○4月14日の空襲の死者数は、1名と10名、どちらなのか調査。
<死者数1名について>
数字の参照元は、市史本文によると『埼玉県警察史』となっている。
『埼玉県警察史 第2巻』埼玉県警察史編さん委員会/編集 埼玉県警察本部 1977年
p197 被害の状況が年表形式で掲載されており、昭和20年4月13日の項目に「大宮市はB29二機により、宮町、土手宿が燃爆を受け、全焼238戸・罹災者1208名・死者1名」とある。
年表の前に「敵機空襲による被害の全容は史料不足のため明らかでないが、当時の新聞及び「警察署沿革誌」などの記事を総合すると次のとおりである。」と書かれており、当時把握できた数字が1名であったということが分かる。
このほかにも、大宮市の空襲の死者数を1名としているのが以下の資料。
これらはすべて、数字を『埼玉県警察史』から引用しているため、死者1名としていると推察される。
『大宮駅100年史』日本国有鉄道大宮駅 1985年 p113-114
『埼玉県南水道企業団50年史』埼玉県南水道企業団 1984年 p136
『新編埼玉県史 通史編7』埼玉県/編集 1991年 p21
<死者数10名について>
以下の資料では、大宮市の死者数は10名となっている。
『日本の空襲 2 茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京都二十三区外』三省堂 1980年
p242 「埼玉県の空襲のあらまし」
埼玉県の空襲被害は「経済安定本部企画部」の調査(昭和23年5月)によると、次の通りである。
大宮市 死者10、重軽傷者 21、建物全焼 13
『埼玉県行政史 第3巻』埼玉県/編集 埼玉県 1987年
p123 「8月25日に県警察部警防課は‐略‐五市の被害についても次のとおり報じている。」とし、大宮市死者12名としているが、「右の数字は、各資料により異なり、正確を期し難いが、その後の新しい資料によれば、次のとおりである。‐略‐大宮市―罹災225戸、985人、死者10人(ただし4月13日のみ、大宮市公文書)」
上記の数字の根拠となる大宮市公文書は見つからなかったが、
「経済安定本部企画部」の調査(昭和23年5月)については、国立公文書館のデジタルアーカイブで確認できた。
「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」
「https://www.digital.archives.go.jp/img/2857508 (2024.10.22最終確認)」
20コマ目に大宮市があり、死亡10となっている。
『埼玉県警察史』の数字(死者数1名)は、当時の新聞や警察署の沿革誌等で戦中当時に把握できた数字であること、
死者数10名の数字の根拠となる「経済安定本部企画部」の調査は、戦後に行われたものであり、おそらく当時は分からなかった死者数が後から分かったであろうことを鑑みると、
4月13日の空襲時の死者数は10名と考える方が妥当で、そのため、年表では10名とカウントしていると思われる。
また、市史本文でも、『埼玉県警察史』からの引用で1名としつつ、その後に「実際は少くとも死者9~10名はいたものと思われ~」と断りを入れている。
<死者数の正確性について>
『日本の空襲 2 茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京都二十三区外』三省堂 1980年
p242-243
「この中でも特に被害の大きかったのは、終戦前夜(8月14日)の熊谷空襲であった、市街地の70パーセント以上を焼き、罹災者は全人口の28パーセントに当たる15,390人を出した。死者は234人となっている。ところが最も新しい『埼玉県の歴史』には死者は246人となっており、その増加した12人は、その後の調査で判明したのだろう。これでも分かるように空襲被害についての数字は全くあてにならない。前掲の調査には載っていないが、『覚書・狭山戦災史』に見られるように、狭山市にも21人という空襲死者がいた。30年間、全く歴史上から抹殺されていたのである。『目でみる埼玉百年』によれば、埼玉県の空襲被害は270余ヶ所に及んだという。こうしたことからも歴史の闇の底に沈もうとしている空襲の実態を一つ一つ掘り起こしていけば、もっと埼玉県の被害状況は大きくなっていくに違いない。」
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 10版)
- 関東地方 (213 10版)
- 行政 (317 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 大宮空襲
- 大宮市
- 空襲
- 大平洋戦争
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000358573