レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年2月3日
- 登録日時
- 2014/02/06 17:55
- 更新日時
- 2016/12/08 14:27
- 管理番号
- 2013-26
- 質問
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解決
宣教師ニューエルが新潟から松山に転勤したことについて、愛媛県内の新聞に記載があるか。また、松山での活動についての資料はあるか。
- 回答
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新聞記事
【資料1】明治37年9月25日1面「●ニユーエル氏 組合派宣教師ギユリキ氏の後任なるニユーエル氏は一両日前家族と共に来任せり」
活動について
【資料3】p16~17「九月新潟在住の宣教師、エイチ、ビーニウエル博士が其の後任として来松された。同博士は温厚篤実な好紳士であったから我が教会員は何れも喜んで其の指導を受けた。同博士並に夫人は常に我が教会に好意をよせられ補助伝道師として招聘して居られた岸本、金澤の両夫人伝道師を終始我が教会の訪問伝道に働かせて大いに我が教会の運動を助けて呉れられた」
【資料4】p76~81、86、95~97、106~124、127~129、135、137、148、150~153、195~198、221~227にて海外伝道組織アメリカン・ボード松山ステーションを拠点にした活動の記載あり。p81脚注「ニューウェル(一八六一年八月二七日~一九四三年八月一四日・米国伝道委員会宣教師)は一八八七年八月に受洗し、九月にジャッジソンと新潟に赴任した。一八八九年にジェーン・コザット[Jane Cozad]と結婚し、一九〇四年七月から松山に転任した。一九二三年に松山を離れた後も、同志社の評議員などを勤め、三〇年に帰米した。」とあり。
【資料5】p212~215 項目「H・B・ニューエル」あり。第二代校長コーネリア・ジャジソンの協力者として当人・夫人・娘の活動が記載されている。本人の写真あり。
【資料6】p31~32に、西村清雄・杉浦忠直と松山女学校校長の後任問題に対処したとあり。p58に理事会が誕生し理事になったことと当時の理事の写真があり。
- 回答プロセス
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来松の日時を特定するため、【資料2】を確認。p103 明治37年9月22日「ギュリキ氏の後任として、新潟からニウエル宣教師が家族とともに康成丸で三津浜に到着」「(教会日誌による)」とあるので、新聞で9月後半を確認。p104には 明治39年5月15日「ニウエル氏一行が松山を発し、午後二時、高浜から乗船、帰米の途についた。(教会日誌による)」とある。
「海南新聞」にはなし。
- 事前調査事項
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ニューエルはシドニー・ギューリックの後任として来松した。
- NDC
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- 各教派.教会史 (198 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】「愛媛新報」(愛媛新報社)
- 【資料2】『松山教会百年史稿』(日本基督教団松山教会 1986年)<当館請求記号K195/3>
- 【資料3】『回顧四十年』(日本基督教団松山教会 1986年)<当館請求記号K195/4> (初版:松山基督教会 大正14年刊)
- 【資料4】『松山関連宣教師文書 第2部』(竹田照子/編訳 岩波ブックサービスセンター(製作) 1999年)<当館請求記号K195.7/マツ2/1999>
- 【資料5】『松山東雲学園百年史 通史編』(松山東雲学園 1994年)<当館請求記号K377/63/2>
- 【資料6】『松山城南百年の譜』(松山城南高等学校創立一〇〇周年記念誌編集委員会 1991年)<当館請求記号K376.4/169>
- キーワード
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- ニウエル氏
- ホレーシオ・B・ニューエル(Horatio Bannister Newell)
- H.B.ニューエル
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- シドニー・ギューリックについてのレファレンス事例<https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000060062>あり。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000148977