レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年06月01日
- 登録日時
- 2024/12/13 10:39
- 更新日時
- 2024/12/13 10:39
- 管理番号
- 市川20240601-02
- 質問
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解決
神田山の開削はなぜ行われたのか。土は日比谷入江の埋立、柳原堤築造に使われたというが、資料を知りたい。(『「水」が教えてくれる東京の微地形の秘密』(実業之日本社 2019)、『地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇』(中央公論新社 2013)は見たとのこと。)
- 回答
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神田山は現在の駿河台のあたり。『日本歴史地名大系13』(平凡社 2002) p.160「駿河台」の項に「江戸城の東にある丘陵。北側に神田川が流れ当初は神田山・神田台とよばれていた」とある。
『江戸の都市計画』(鈴木理生/著 筑摩書房 2024) では、江戸建設は「最初から大江戸の姿を目指したのではなく、その時々の必要をみたすために、まず最小限の工事が行なわれ、その結果が熟して新しい必要性が生まれたときに、また建設が追加されるという形のものだった。」(p.177)と解説する。日比谷入江埋立は沖積地不足の解決と、敵船からの防衛のためとし(p.186)、御茶ノ水の掘割りの目的は、平川・小石川の洪水から城と中心市街地を守るためで、揚土は水害を防ぐ土手に利用され、柳原の土手の記述もある(p.190)。p.223には、陸地化の土は大部分が江戸築城のさいの「残土」だったとある。同著者の『江戸の川・東京の川』(日本放送出版協会 1978)には、日比谷入江の埋立は、防衛上の配慮と同時に大名・旗本の宅地造成を兼ねたものとあり(p.119~121)、「低地改良工事は(中略)神田山を掘り崩した土で埋め立てた」(p.123)とある。
『徳川四代大江戸を建てる! 驚きの江戸の町づくり』(実業之日本社 2017)p.92~には、日比谷入江の埋立理由として、宅地等の造成、海防上の理由とともに、堀の開削等で溜まる膨大な残土処理を挙げている。しかし残土だけでは足りず神田山の切り崩したとされ、天下普請について解説している。ほかに、『江戸学事典』(西山松之助/[ほか]編集 弘文堂 1994)p.97に、「豊島洲崎の海面を埋立てさせて町地を造成した。このとき神田山を堀り崩した土砂が埋立てに用いられた。」として三浦浄心の『慶長見聞集』の文を引用している。
『江戸の町 上』(内藤昌/著 草思社 2010)では、「四神相応」の原理による都市計画、「の」の字型拡張計画の中での神田山の切り崩し、日比谷入江埋立、平川の流れを浅草川に付替える工事の記述がある(p.42)一方、『地形で見る江戸・東京発展史』(鈴木浩三/著 筑摩書房 2022)では、その説を否定し、「江戸の城づくり・都市づくりの基本は、地形との関係から導くことができる」(p.86)として、城の整備と一体的に日比谷入江が埋立てられ、西丸の濠工事のほか、江戸城本体の工事で生ずる残土や、神田山を崩した土砂も埋立てに使われたとしている (p.54) 。洪水対策としての駿河台の掘割開削や水害対策として築かれた柳原土手についても記載あり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 言葉
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000360545