レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年03月13日
- 登録日時
- 2024/04/14 10:26
- 更新日時
- 2024/05/10 14:22
- 管理番号
- 県立長野-24-008
- 質問
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解決
太平洋戦争時、日本陸軍の広東陸軍第二病院は中国広州のどこにあったのか。ここで亡くなった人の墓地はどこにあるのか。
- 回答
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広東第二陸軍病院が正式名称。次の資料に記載がある。
・『南支那方面部隊略歴』厚生省援護局編・刊 1961 [国立国会図書館デジタルコレクション送信サービスで閲覧可能 最終確認2024.4.23]
151コマ目の「第百八十兵站病院略歴」によると、昭和15年2月9日に開設され、昭和21年5月30日で解散している。この間、伝染病患者を中心に治療したことが特記されている。その間、昭和15年11月9日の軍令陸甲第50号により、広東第二陸軍病院として改編され、昭和20年3月20日の軍令陸甲第18号により、広東第二陸軍病院の復帰並第180兵站病院の編成が同年3月30日に行われたことがわかる。
この病院略歴の文章中から、開設以来昭和20年8月14日(ママ)の終戦に至る間、広東市百霊路知用中学校の跡を利用したことがわかる。鉄筋煉瓦造と読み取れる。
なお、同じように広東第一陸軍病院は、「第百三十六兵站病院略歴」(同URL 149-151コマ)で、昭和20年3月18日「広州市東山に於て旧広東第一陸軍病院に於ける一切の施設を継承せり」と記されている。九州大学学術情報リポジトリに服部英雄著「史料紹介: 野戦病院・南支派遣軍第104D 第2FL shouwa17-20」(『比較社会文化』第17号(2011)p.95-141に掲載)が公開されている。[最終確認2024.4.23]
これによると、衛生部隊は作戦行動をしているとき以外は陸軍病院にいたと思われる。撮影をした人が駐留していた陸軍病院が、第一か第二か言及していないが、六榕寺(りくようじ)近くに病院があったという広東市(現・広州市)内で撮影された写真も紹介されている。・『地球の歩き方D05 広州 アモイ 桂林』地球の歩き方編集室編 ダイヤモンド・ビック社 2008【290.9/チキ/4-5】
p.40-41「広州市区中心」の区分D1の六榕寺の北にある道路の名称が「百霊路」となっている。また、同じ場所をGoogle mapでみると、同じ六榕寺の近くに広州市知用中学があり、その北の道は「百灵路」となっている。[最終確認2024.4.23]なお、墓地について記載された資料は確認できなかった。『台湾人従軍看護助手と日本人軍医-広東第二陸軍病院の絆は今も-』洪林幸 伊丹康人共著 展転社 2006が出版されている。参考になる記述があるかもしれないが、当館では所蔵していないため相互貸借を案内した。
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<追記>
『台湾人従軍看護助手と日本人軍医-広東第二陸軍病院の絆は今も-』洪林幸 伊丹康人共著 展転社 2006【916/コリ】を受入したので、内容を確認した。p.29に写真があり、キャプションに「六榕寺の塔と手前の四階建てが外科病棟」とある。p.32,33,34,35にも、病院周辺でとられた写真が掲載されている。
また、p.65にこの広東第二陸軍病院の広東というのは、今の広州市であるが、第五師団の司令部があり、東の方に第一陸軍病院、西の方の支那で大変有名な高僧がいる六榕寺の塔に接して、第二陸軍病院があった。
とある。内容の精査はしていないが、死者を埋葬した場所については触れられていないようだ。
- 回答プロセス
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1 『帝国陸軍編成総覧』外山操編著 芙蓉書房出版 1987【3961/トミ】で、病院の正式名称を確認する。p.700に「広東第二陸軍病院」があり、これが正式名称とわかる。病院長を昭和17.1.12 渡辺稔(医中佐) 昭和18.6.3山本修(医中佐) 昭和20.2.6山田兵三(医大佐)が務めたことがわかった。住所などの記載はない。
2 所蔵する資料で、戦前の中国広東省広州市のガイドブックや地図を探す。キーワード「広州」、NDC分類を「292」、出版年を1945年以前にして検索する。ヒットした資料を確認するが、軍施設について触れた資料はない。
3 『戦史叢書』の中から、支那派遣軍について書かれたもののうち、広州は中国南部にあたるため、南支を扱うものを調べる。病院、兵站病院などについてかかれた個所は目次等からは確認できない。
4 国立国会図書館デジタルコレクションを「広東第二陸軍病院」で検索するが、ヒットしたものの多くが戦死者名簿で、回想記のようなものは国立国会図書館内限定で閲覧できなかった。
5 web上をサーチエンジンで、「広東第二陸軍病院」を検索すると、『台湾人従軍看護助手と日本人軍医-広東第二陸軍病院の絆は今も-』がヒットした。しかし、当館では所蔵していない。
6 国立国会図書館デジタルコレクションを、「南支派遣 病院 広東 陸軍」で検索する。ヒットしたものの中に『南支那方面部隊略歴』を発見。全文検索で、「広東第二陸軍病院」で検索してもヒットなし。「陸軍病院」でヒットしたページを確認する。
7 CiNii Researchを「広東 陸軍病院」で検索する。「史料紹介 : 野戦病院・南支派遣軍第104D 第2FL : 昭和17-20(1942-45)年」がヒットする。
8 『南支那方面部隊略歴』に「広東市百霊路知用中学校の跡を利用」とあり、「史料紹介 : 野戦病院・南支派遣軍第104D 第2FL : 昭和17-20(1942-45)年」では、「六榕寺近くに病院があった」の記述から、現在の位置を探すこととする。ただし、「六榕寺近くに病院があった」病院が、第一か、第二かは明記されていない。GoogleMapの「広州市」から「百霊路」を探すがうまくヒットしない。「知用中学校」を検索すると、「広州市知用中学」がヒットした。比較的近い位置に「六榕寺」もあることがわかる。
9 『地球の歩き方D05 広州 アモイ 桂林』で「六榕寺」周辺の地図を探す。六榕寺の北にある道路の名称が「百霊路」とあった。「Google翻訳」で「百霊路」を繁体字から簡体字へ変換すると、「百灵道」となる。GoogleMapでは、「百灵路」の表記の道があった。住所まではわからなかったが、この周辺に病院があったと思われる。
10 『台湾人従軍看護助手と日本人軍医』の内容を確認する。
<調査資料>
・『陸軍オール部隊名鑑 帝国陸軍編成総覧・索引』芙蓉書房出版 1988【396.1/フヨ】
・『昭和十七・十八年の支那派遣軍』防衛庁防衛研修所戦史室編 東雲新聞社 1972(戦史叢書)【393/26/42】
・『昭和二十年の支那派遣軍(1)』防衛庁防衛研修所戦史室編 東雲新聞社 1971(戦史叢書)【393/26/33-1】
・『昭和二十年の支那派遣軍(2)』防衛庁防衛研修所戦史室編 東雲新聞社 1973(戦史叢書)【393/26/33-2】
・『日中戦争への旅 加害の歴史・被害の歴史』 宮内陽子著 合同出版 2019【292.2/ミヨ】
- 事前調査事項
- NDC
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- アジア (292 10版)
- 陸軍 (396 10版)
- 参考資料
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南支那方面部隊略歴. 厚生省援護局, 1961.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001720563 -
「地球の歩き方」編集室 編著. 地球の歩き方 D5 2009-2010年版. ダイヤモンド・ビッグ社, 2008.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009934192 , ISBN 978-4-478-05643-1 (8【290.9/チキ/4-5】)
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南支那方面部隊略歴. 厚生省援護局, 1961.
- キーワード
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- 広東第二陸軍病院
- 第百八十兵站病院
- 広東州
- 広州市
- 日本陸軍
- 太平洋戦争
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人 社会人
- 登録番号
- 1000349063