レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年9月4日
- 登録日時
- 2017/03/29 00:30
- 更新日時
- 2022/04/01 09:43
- 管理番号
- 県立長野-14-118
- 質問
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解決
集団疎開で東京都足立区の小学校が、長野市のどこ(具体的な場所)に受け入れられたか、詳しくわかる資料はないか。
『学童疎開の記録1』全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994 【372.1/ゼン/1】では、梅島第一小学校の疎開先は善光寺温泉とあるが、松代町(現・長野市)ではないか確認してほしい。また、p.471に19年は疎開せずと記載のある学校もある。学童疎開は何回かに分けて実施されたのか。そのなかに、梅島第一小学校の疎開先として松代はあるか。
- 回答
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学童集団疎開は、東京都の場合、第1次から第4次まで4回にわたって行われたようだが、第2次以降の疎開については資料がほとんど確認されていないとのこと。足立区の梅島第一国民学校初等科の疎開先は、第1次、第2次のいずれも芋井村(現・長野市芋井地区)との記載を確認。
以下の資料等の紹介。
・『芋井地区戦後五十年誌』
芋井地区戦後五十年誌編集委員会編 芋井地区連合区長会 1999 【N212/340】
p.12「第一章 終戦前夜の証言」「5 学童疎開と記念碑」「第一次学童疎開」「第二次学童疎開」の
項目あり。これによると、芋井村(現長野市芋井地区)が受け入れた集団疎開学童は、梅島第一国民学
校の生徒と教師で、第一次は昭和19年8月から翌20年3月まで、高学年の生徒主体の54名と教師3名が当
時の芋井村、善光寺温泉に疎開している。また第二次として、昭和20年4月、3年生の低学年も含む学童
113名、校長、教師7名が芋井村、平の法学寺、洞の松参寺、岩戸の観音寺の三か所に分宿して疎開し
たとあり。第一次の6年生は、卒業のため20年3月には大半が帰郷したが一部はそのまま残り、第二次疎
開組に合流したとある。
芋井村は昭和29年に長野市へ編入合併をした。
・『長野市誌 第8巻 旧市町村史編』 長野市誌編さん委員会編 長野市 1997 【N212/318/8】
p.753「芋井地区要図」(頁付けなし 前後の頁より確認)に善光寺温泉、法学寺、松参寺の記載があ
り、村のどの辺りか確認できる。観音寺については記載がないが、所在地の岩戸の地名は記載がある。
各寺については同資料のp.770-771「第15章 芋井」「第3節 神社と寺院」「2 寺院」の項にそれぞれ
の寺の所在地、由緒などの記載あり。
・『東京都の学童疎開』 東京都編 東京都 1996 【372/トウ】
この資料には「市町村別学寮調(昭和20年6月末現在)」の掲載があり、p.475芋井村の箇所には、寺
院充当寮舎数3、児童数114、足立区、梅島第一と記載がある。また、同市町村学寮調のp.473松代町の
箇所には区および学校名は豊島区、池袋第三と記載あり。
・『松代町史 続巻』 臨川書店 1987 (長野県郷土誌叢刊)【N212/236/3】
p.436には集団疎開学童の受入が始まり、昭和19年8月20日に東京都豊島区池袋第三国民学校児
童3・6年生149名が松代へ、4・5年生107名が東条へ受入れられたとあり。
先述の『東京都の学童疎開』のデータは昭和20年6月末現在であり、『松代町史 続巻』は昭和19年の記載。どちらの受入も豊島区池袋第三国民学校の集団学童疎開だった。また、集団学童疎開は昭和19年から始まり、当初は1年間の予定だったが、戦局の悪化が顕著になり、昭和20年に当初の期間が1年間延長された。
・『学童集団疎開の研究』 星田言著 近代文芸社 1994 【372.1/ホゲ】
p.63には東京都の場合は、第1次集団疎開の出発は昭和19年8月から9月にかけて、第二次が昭和20年
3月、第三次が5月、第四次が7月と四回にわたって行われたとある。しかし、p69には東京都の各区史や
教育史をみても第二次以降の学童集団疎開の数はほとんど記載されていないとある(例外として杉並区桃
井第二国民学校は第一次~第四次までの記録あり)。
・金井清敏著「学童疎開受入れと復帰に関する資料紹介」『長野』 第193号 p.16-27
p.25「集団疎開学童並ニ教職員輸送計画表」に梅島第一は人員34、11月11日長野駅発、11月12日北
千住駅着、疎開村名、芋井とあり。
以上の調査から、昭和19年8月-昭和20年6月の間は、梅島第一国民学校の集団疎開先は現長野市芋井地区であったようである。また、上記金井清敏著「学童疎開受入れと復帰に関する資料紹介」の表は復帰に関する資料で梅島第一国民学校は芋井村からの復帰という記載があり、調査した資料では疎開先に芋井以外の地名は確認できなかった。
他に関連の記載があった資料は次のとおり。
『信濃教育』 第695号 信濃教育会 1944.11
p.21-29「集団疎開学童受入一覧表」のうち、
p.28には「上水内(五二) 梅島第一校足立区(五二) 善光寺温泉(五二) 座学」との記載あり。
p.26には松代の受入として豊島区池袋第三校の記載がある。
- 回答プロセス
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1 『学童疎開の記録1』を確認。この資料には足立区の学童疎開について疎開先、学寮名などの記載がありこれ以上どのような調査を望まれているのか質問者に電話で伺ったところ、上記、質問要旨の内容だった。
2 当館OPAC全項目「学童疎開」で検索。『東京都の学童疎開』『学童集団疎開の研究』『長野県下の学童疎開』『信濃教育』 第695号、『長野』 第193号などがヒット。調査。
3 web上を「梅島第一小学校」「学童疎開」で検索。何件かヒット。
神子島健著「終戦期長野の山村疎開の諸相-石川達三『暗い嘆きの谷』を読む-」【最終確認2022.3.29】『相関社会科学』第18号(2008)を確認。
この論文から、梅島第一国民学校の生徒が当時の芋井村、善光寺温泉に疎開したことがわかる。末尾にある参考文献より当館所蔵の『芋井地区戦後五十年誌』『長野県史 通史編 第9巻 近代3』を調査。
4 国立国会図書館サーチ「学童疎開 長野」で検索。『長野県下の学童疎開』などヒット。
5 『松代町史』『長野市誌 第8巻 旧市町村史編』『芋井村誌』を調査。
<調査資料>
『芋井村誌』 [芋井村誌]編纂委員会[編] 芋井村 1957 【N212/276】
『信濃 第3次』 第5巻7号 2006.7 信濃史学会
『長野県下の学童疎開』 篠ノ井旭高校郷土研究班編 篠ノ井旭高校 1994 【N375/185】
『長野県史 近代史料編 史料総目次』 長野県編 長野県史刊行会 1991 【N209/11-1/ベツ3】
『長野県史 近代史料編 第9巻 教育』 長野県編 長野県史刊行会 1985 【N209/11-1/9】
『長野県史 通史編 第9巻 近代3』 長野県編 長野県史刊行会 1990 【N209/11-4/9】
『学童疎開の記録2』 全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994 【372.1/ゼン/2】
『学童疎開の記録3』 全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994 【372.1/ゼン/3】
『学童疎開の記録4』 全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994 【372.1/ゼン/4】
『学童疎開の記録5』 全国疎開学童連絡協議会編 大空社 1994 【372.1/ゼン/5】
- 事前調査事項
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『学童疎開の記録1』大空社
- NDC
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- 教育史.事情 (372 10版)
- 中部地方 (215 10版)
- 日本史 (210 10版)
- 参考資料
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長野市誌編さん委員会/編 , 長野市誌編さん委員会 , 長野市. 長野市誌 第8巻. 長野市, 1997-10.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059361626-00 (【N212/318/8】) -
東京都 編 , 東京都. 資料・東京都の学童疎開. 東京都, 1996.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002504685-00 (【372/トウ】) -
松代町史 続巻. 臨川書店, 1987. (長野県郷土誌叢刊)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001857940-00 , ISBN 4653015457 (【N212/236/3】) -
星田言 著 , 星田, 言, 1933-. 学童集団疎開の研究. 近代文芸社, 1994.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002333115-00 , ISBN 4773331976 ( 【372.1/ホゲ】) -
長野 第193号1997の3(1997/05) 第193号1997の3(1997/05). 長野郷土史研究会, 1997-05-01., ISSN 02877309
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I100789636-00 (金井清敏著「学童疎開受入れと復帰に関する資料紹介」『長野』 第193号 p.16-27)
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長野市誌編さん委員会/編 , 長野市誌編さん委員会 , 長野市. 長野市誌 第8巻. 長野市, 1997-10.
- キーワード
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- 梅島第一小学校
- 学童集団疎開
- 学童疎開
- 信州学
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000213040