下記資料を案内した。
山形市を中心に活動している劇団である劇団山形について、資料1『劇団山形50年史』P13~26に昭和40年から平成27年までの公演活動の記録が記載されています。
資料2『山形市児童劇団30年の歩み』P16~74には、「昭和50度(第1回発表会)」から「平成16年度(第30回発表会)」までの公演活動の記録が記載されています。
最上地域を中心に活動している劇団である東北幻野について、資料3『東北幻野結成十周年記念誌』P151には1990年11月から2000年11月までの公演活動の記録が記載されています。
次に地芝居、地歌舞伎について下記にご案内します。
資料4『黒森歌舞伎』には酒田市の黒森歌舞伎の歴史や沿革について記載されています。
資料5『鮭川歌舞伎』には鮭川村の鮭川歌舞伎の歴史や沿革について記載されています。
資料6『吉田歌舞伎』には小国町の古田歌舞伎の歴史や沿革について記載されています。
資料7『山形の宝探訪』P5には「鮭川歌舞伎」がP9には「古田歌舞伎」の写真・説明が記載されています。
最後に山辺町史等の資料について、ご案内します。
資料8『山辺町史 上巻』P988~992に「二 面白人形芝居(三吉人形) 面白人形芝居の発祥」という題名で、「山辺町の北西部・町の中心部から六キロほど山間にはいった面白集落に、人形遣いをする一族がいた。土地の人からは三吉人形といわれ親しまれていた。創設者は峯田三蔵(三吉の父)とされるが、どこの誰から伝習されたのかわからない。(以下省略)」と記載されています。
資料9『山辺町史 下巻』P316~317には、「三 明治期の文化・文芸 面白人形芝居」という題名で面白人形芝居のその後の状況を概観しており、P897には、「面白人形は戦後は面白の三之丞と軽井沢の留蔵によってわずかに命脈は保たれていた。三吉様や松山の祭りなど、あるいは福島や仙台からの招聘、学校からの招請などがあると出掛けたという。(途中省略)この面白人形芝居について戦後山辺でとりあげたのは、一九七一(昭和四十六)年五月ごろ、山辺中央公民館で峯田留蔵の演技を山辺町中央公民館に勤務していた高橋弘が八ミリ映画に作成した。この後、中中学校の郷土研究クラブはこの人形芝居を研究テーマとして一九九八(平成十)年に、実際に演じるまでになっている。」と記載されています。
資料9『山辺町史 下巻『』P317には、「山辺人形芝居の生い立ち」という題名で、「山辺人形芝居一座は、船町(山形市船町)の阿部房司(安政五年生まれ)によって、一八八七(明治二十)年ころに創設されたといわれる。(以下省略)」と記載されており、P895~896には、「戦後の人形芝居」という題名で、「敗戦後は伝統的なものは排除される風潮にあり、仇討や旧い人情物の興行は無理だったのだろう。それに口伝の芸能だから後継者の育成を難しくしたと思われる。一九六七(昭和四十二)年一月六日~七日に上山温泉村尾旅館で第五回山形県民間教育研究団体冬期研究集会が開催されているが、この時の上演パンフレットに江口文四郎は「山辺人形芝居」(正確にいえば「山辺差込み手づかい人形浄瑠璃」)が、ひろく専門的な批評を受けたのは、「人形劇団プーク」との共演がはじめてのようである、と書き出し、前年の九月十六日からの日仏会館ホールでの公演が契機だろうとしている。その後、一九七二(昭和四十七)年十一月一日付で山辺町無形文化財に指定、一九七六年に斎藤茂吉文化賞を受賞した。現在「山辺町ふるさと資料館」に三場面二三体の人形が収蔵されている。(途中省略)一九九五年に町教委は復活を企画し、一座の公演にずっと参加して来た、ただ一人残る人形遣い、阿部司郎(山形市船町)を中心に町内の希望者で一座を結成、復活公演を行ったが、継続的な「山辺人形芝居」の保存復活には道遠しである。(以下省略)」と記載されています。
資料10『山辺人形芝居と尻高人形芝居』P4~6には、「山辺人形芝居」という題名で解説が記載されており、P6には「初代房司の生涯をかけた成果は、完全に二代房司に継承され、更に発展して、広く公開されたのは誠に喜ばしい。そして現在、山辺町指定無形文化財になっている。しかし、戦争のため掌中の珠ともいうべき弟子を数人も失い、また浄瑠璃のよきパートナーとも死別し、ことし八十三歳になる高齢の房司は、いま大きな壁にぶつかっている。それでも、西川一座には息子の司や、孫の謙太郎、孝も参加し、舎弟の竹司、その息子の司朗、守、それに弟子の次男などもいて、一座を懸命に守ろうとしている。大方のご声援を期待してやまない。」と記載されています。