レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/08/28
- 登録日時
- 2009/11/11 02:11
- 更新日時
- 2009/12/02 10:42
- 管理番号
- 埼浦-2009-041
- 質問
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解決
『私の財産告白』(本多静六 実業之日本社 1956)p12-15「ブレンタノ博士の財訓」の項に出てくる「ミュンヘン大学で有名なブレンタノ先生」とは、Lujo Brentano(1844-1931)のことか。同書によれば、本多静六氏は、ドイツ留学時「ミュンヘン大学で有名なブレンタノ先生の下に財政経済学を専攻して来た」とある。
- 回答
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以下資料の記述により、「ミュンヘン大学で有名なブレンタノ先生」とは、Lujo Brentanoと思われる。
『本多静六体験八十五年』(本多静六 講談社 1952)
同書によるとドイツ留学は明治23年~明治25年(1890~1892)。p117に、「〔ミュンヘン大学の〕財政学の試験をする人に、ヘルヘリッヒ老教授の後継者として新らたに着任したブレンタノ氏(中略)ブ教授はドイツ否当時世界第一流の学者(以下略)」とある。
『わが生涯とドイツの社会改革 1844~1931』(ルーヨ・ブレンターノ〔著〕 ミネルヴァ書房 2007)
p535「訳者あとがき」の項によると、「さらに1891年秋、(中略)ミュンヘン大学から、引退する恩師ヘルフェリッヒの後任として招聘された(以下略)」とある。
両氏の自伝には、「ヘルフェリッヒ」教授の後任がブレンターノ氏であったことが書かれている。
『本多静六通信 第10号・特別号 明治23年洋行日誌』(本多静六博士を記念する会 1998)
ドイツ留学時の日誌。p51「洋行日誌の内学位試験及び学位授与式の景況(明治25年)」の3月5日を見ると、「この日試験をした教授は、(中略)国政経済学(財政学)では枢密顧問官教授プレンタ氏で(以下略)」とある。p53人名索引には、「プレンタ(ブレンタノ・財政学教授)」とある。
上記資料の記述から、時期的にも合っていると思われる。
- 回答プロセス
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両者の自伝を確認するため、『本多静六体験八十五年』(本多静六 講談社 1952)および『わが生涯とドイツの社会改革 1844~1931』(ルーヨ・ブレンターノ〔著〕 ミネルヴァ書房 2007)を調査した。
また、本多氏のドイツ留学時の「洋行日誌」を『本多静六通信 第10号・特別号 明治23年洋行日誌』(本多静六博士を記念する会 1998)で確認した。
- 事前調査事項
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「私の財産告白」(本多静六 実業之日本社 1956)p12-15「ブレンタノ博士の財訓」の項。
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 経済学.経済思想 (331 9版)
- 財政学.財政思想 (341 9版)
- 参考資料
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- 『本多静六体験八十五年』(本多静六 講談社 1952)
- 『わが生涯とドイツの社会改革 1844~1931』(ルーヨ・ブレンターノ〔著〕 ミネルヴァ書房 2007)
- 『本多静六通信 第10号・特別号 明治23年洋行日誌』(本多静六博士を記念する会 1998)
- キーワード
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- 本多 静六(ホンダ セイロク)
- Brentano Lujo(ブレンターノ ルヨ)
- ミュンヘン大学-ドイツ
- 経済学-財政学-ドイツ
- 人物-埼玉県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000059383