レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年01月
- 登録日時
- 2010/02/25 10:32
- 更新日時
- 2013/01/21 17:35
- 管理番号
- 兵図00083
- 質問
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解決
群馬県の草津で、ハンセン病患者のために働いたリー女史が、晩年、明石市に隠棲したが、明石に来た理由、および、住まいした場所
- 回答
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明石に隠棲した理由については、①『近現代日本ハンセン病問題資料集成 戦前編 第6巻』(不二出版 2002.12)に、昭和12年4月発行の「草津聖バルナバ医院略史」が所収されており、「・・リー女史は多年に亘る激しい働きのため九年冬頃よりその健康を害し静養を続けて居たが、一進一退荏苒完治せず且つ既に八十歳の高齢であり旁々医師の勧めによって、昭和十一年七月今迄手塩にかけておほし立てゝ来た此の事業より全く手をひいて兵庫縣明石の海浜に転地療養をなすの止むなきに至った」という記述があります。
②『湯之澤聖バルナバ教会史』(湯之沢聖バルナバ教会 編纂/日本聖公会・聖慰主教会/1982)にも、健康上の理由により、寒冷地 草津から「昭和十一年(1936年)一月八日シメオン先生の御厚意ニヨリ、兵庫縣明石に避寒サレ静養スル事ニナッタ。」と記録されています。
明石での住まいについては、同じく『湯之澤聖バルナバ教会史』に、「リー教母ノ御永眠」の見出しで、次の記述があります。
「リー教母ハ昭和十一年明石ニ着キ用意サレタ借家ニ入ラレタガ、既ニ購入シテアッタ明石聖公会ノ将来ノ敷地内ニ礼拝所を兼ネタ牧師館ト宣教師館ト将来教会の会館トナスベキ自己ノ住宅トヲ、リー教母ハ建築シテ教会ニ寄附シ、其処ニ余生ヲ送ル事トセラレタ。・・・主日ニハ必ズ隣家ナル教会ノ礼拝ニ赴イタ。」 その後、日本が太平洋戦争に突入した直後の昭和16年12月18日逝去、「・・・行年八十四歳六ヶ月恰モ新築サレタル明石聖マリア・マグダレン教会ニテ、司祭八代欽之介師ノ司式、主教八代斌助師ノ説教アリテ埋葬式ヲ執行。」
明石聖マリア・マグダレン教会の住所は、③『兵庫県宗教法人名簿 平成17年』(兵庫県企画管理部管理局文書課/〔2005〕)に、「明石市太寺天王町11」とあり。
よって、一旦借家に入って後は、現在、聖マリア・マグダレン教会のある「明石市太寺天王町11」もしくはこの敷地内に住まわれていたと考えられます。
- 回答プロセス
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『湯之澤聖バルナバ教会史』に、昭和十四年(1939年)十二月十日付 東京朝日新聞の記事からの抜粋として、「・・・現在明石市太寺二丁目ニ老後ヲ養ッテイル」とあり。
『兵庫県宗教法人名簿 昭和30年3月現在』(兵庫県総務部教育課/ 〔1955〕)にも、明石聖マリア・マグダレン教会の所在「明石市太寺二丁目十一」とあり。
『兵庫県宗教法人名簿 平成17年』と住所が異なるため、教会が移転したのか、地名の変遷があったのか確認が必要となる。
『角川日本地名大辞典』(角川書店/1988.10)より、昭和41年、町字の区域および名称が変更され、昭和14年当時の太寺2丁目は、その一部のみが太寺天王町となったことが分かる。
当時の兵庫県公報より詳細を確認したが、当該箇所の変更部分は番地での記載なし。よって、もともと現在の太寺天王町にあったのか、現在の太寺2丁目にあったものが、後に太寺天王町に移ったのか、特定が困難となる。
前述の八代斌助師から『日本聖公会神戸教区の成立と活動』(桑田優 〔ほか〕編著/ミネルヴァ書房/2006.3)に辿り着き、1938年7月、現在地に牧師館が完成し、明石聖マリア・マグダレン教会と命名されたこと。1941年11月30日、新たに建築された新礼拝堂の聖別が行われたことが記載されていたため、教会そのものは、当時から同じ場所にあったことが確認できる。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 布教.伝道 (197 9版)
- 社会福祉 (369 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- コンウォール・リー, メアリー・ヘレナ
- 聖バルナバ・ミッション
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000063973