レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/07/08
- 登録日時
- 2016/10/01 00:30
- 更新日時
- 2016/10/01 00:30
- 管理番号
- 6001017443
- 質問
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未解決
『五重塔』の登場人物、郎円上人のモデルとなった人物は実在したのでしょうか。
- 回答
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『日本文芸鑑賞事典:近代名作1017選への招待 明治3~28年』(石本隆一/[ほか]編纂 ぎょうせい 1987.8)
p199~201「登場人物達は作者露伴のまったくの想像の産物というわけではなく」とあり、「自作の由来」(『唾玉集』)という露伴の談話について、「郎円上人の人物像については次の話から推察できそうです。此の男(倉)が上野の或寺の普請をしてゐた時に、此の寺の碩徳が才物と云はれてゐた或る宮様師をさとすのを聞いた」と紹介していますが、「上野の或寺」「寺の碩徳」というだけで、注釈はありません。
『唾玉集:明治諸家インタヴュー集 東洋文庫』(伊原青々園/編 平凡社 1995.8)p19~23には、郎円上人のモデルとなった人物についての記述はありませんでした。
『露伴九十九章』(日沼滉治/著 未知谷 2006.8)
p165~166に円朗上人と寛永寺を『五重塔』の郎円上人と感応寺にかさねた記述があります。
「現実の東叡山寛永寺は、唯一の檀家ともいうべき幕府が瓦解したうえに、彰義隊のたまり場になって堂宇は焼かれる、慶喜公とはしっくりしない(中略)明治十一年から遅ればせながら再建工事がはじまって、五重塔の建立こそなかったものの、それが小説のひと昔まえのことである。小説の感応寺という寺号にしても、実在の谷中天王寺が寛永寺に属する以前は、日蓮宗の感応寺として世に知られた名刹である。感応寺という響きの近さもある(中略)『寛永寺の上野』によれば、寛永寺再見の番匠は平松十吉といって尾張の出身だったとあり、四章にわたって十吉の逸話を伝えている。再建の用材は川越の喜多院の本堂を崩したものだった(中略)郎円と円朗、感応寺と寛永寺、十兵衛と十吉、川越の源太と川越の喜多院。語呂合わせやモデル問題にこだわる必要はないけれども、現に目の前に上野の寛永寺があって、時世の転変に処すること十兵衛同様まことにつたない。」
また、円朗上人について、「円朗上人も川越の松山の農家の生まれながら、十一歳で家を出るとき鰯を食したきりなんの肉も口にしたことがない。若いころ芸者に慕われ家でお経を読んでもらいたいとか何とか、言い寄られて震え上がり汽車のない時分に比叡山まで逃げて三年間帰らなかった、これが一生一度の女難というものだと心得ているらしい上人であったという」と紹介されています。
特定できる資料は見当たりませんでしたが、「上野の或寺」とは寛永寺のことで、郎円(郎圓)上人のモデルは「寺の碩徳」と言われる大照円朗ではないかと思われます。
[事例作成日:2016年7月8日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 祭祀 (176 8版)
- 参考資料
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- 日本文芸鑑賞事典 1 石本/隆一∥[ほか]編纂 ぎょうせい 1987.8 (199-201)
- 唾玉集 伊原/青々園∥編 平凡社 1995.8 (19-23)
- 露伴九十九章 日沼/滉治∥著 未知谷 2006.8 (165-166)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌事項調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000197581