レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023/02/22
- 登録日時
- 2023/03/09 00:31
- 更新日時
- 2023/03/09 00:31
- 管理番号
- 6001060193
- 質問
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解決
森鴎外の小説「高瀬舟」に、高瀬舟で大阪に送られるとあるが、大阪に送られた後はどうなるのか知りたい。
- 回答
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まず『高瀬舟』の記載は次のとおり。
■『高瀬舟』(森林太郎/著 春陽堂 1918)
「高瀬舟」(p.1-25)
「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が老屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。」(p.2)
高瀬舟で大坂に送られた後、どうなるかについては次の資料に記載があった。
■『日本行刑史』(滝川政次郎/著 青蛙房 1964)
「第二部 獄制史の研究 二 京都六角の牢屋敷と雑色・見座・中座」に「六角の牢屋から発遣される流人が此処で高瀬舟に乗せられ、淀川を下って大阪の八軒屋に着き、松屋町の牢屋で出船を待ち、その年の島順に従って九州の五島、天草、薩摩の甑島に配送せられたことは、文豪森鴎外の小説『高瀬舟』によって、ひろく人に知られている。」とある。(p.247)
■『大坂町奉行と刑罰』(藤井嘉雄/著 清文堂出版 1990)
「第十章 大坂町奉行所の刑執行方法 第六節 自由刑 (一)遠島 1 刑の執行方法」に次の記載がある。
・「一 遠島」として「京・大坂・西国・中国よりの流罪の分は、薩摩・五島の島々・隠岐国・天草島え遣わす」(p.339)とある。
「御定書は、遠島の際における流罪地、船が難破した時」など詳細に規定しているとして、次の記載がある。
・「一 大坂町奉行は公事場で遠島の判決を申渡すと共に、配流地を指定し、出帆迄在牢すべき旨を申渡した以後、身柄(遠島者・流人)は町奉行所の流人役(与力二騎、同心二名)に引き渡され、直ちに入牢させた。つまり、遠島の判決が「在牢証文」をも兼ねた。以後、乗船迄の諸事は、この流人役が取扱った。」(p.340)
・「右大坂町奉行所分の流人は、京都・伏見・奈良及び堺の各奉行所分の流人と混ぜて、甲乙ないように順番[嶋順]に、1 隠岐・肥後の天草、2 薩摩の諸島・肥前の五島・壱岐へ夫々配流した。」(p.340)
「(イ)隠岐・天草の幕府直轄地の島に配流する場合」に次の記載がある。
・「1 島順により、隠岐・天草に配流する年は、春三月頃配船用意を大坂城代伺い、四、五月頃に出帆し、年一回であった。」(p.342)
・「2 その一方、大坂町奉行は、流人の配流に付き、京都・奈良・伏見及び堺の各奉行に対し、大坂よりの便船次第及び乗船の日限を通知した。そこで、京都・伏見両奉行所の流人は、同心が差添い船路〔高瀬舟〕で乗り下るので、これを川口〔木津川口又は安治川口〕で受取り、直ちに元船に乗り移らせた。」(p.342)
「(ロ)薩摩・肥前五島及び壱岐の私領の島に配流する場合」には次の記載がある。
・「配流する年の前年秋、所司代が当該藩の京都留守居に迎船を差出すべき旨を申渡した。一方、大坂町奉行からも当該藩の留守居に迎船の用意を連絡した。」(p.345)
また、「(ハ)京都・伏見・奈良及び堺奉行所分の流人」について「船路又は陸路により、大坂へ護送の上、出帆まですべて松屋町牢屋に入牢させたのではなく、入牢させたのは、原則として、他所の代官所又は預所の流人だけであった。滝川政次郎博士は、京都の流人は高瀬舟に乗せられ、淀川を下って大阪の八軒屋に着き、松屋町の牢屋で出船を待った(『日本行刑史』二四七頁)とされるが、このようなことは原則ではなく、例外的であった。(346p)
■『日本流人島史:その多様性と刑罰の時代的特性』(重松一義/著 不二出版 2011.11)
「第五章 九州・西国流人 三、多岐にわたる西国流人の配流諸島」に次の記載がある。
・高瀬舟で下ってきた京の流人などの「配流の指示は、京都所司代名儀の嶋御証文が大坂城代を経てなされ、大坂町奉行流人役がその年の島順を繰出し島割りを行うことになる。」とあり、『御用秘鑑』『公事要書』による、「流罪地は大坂・堺の分は隠岐嶋、京・伏見・奈良の分は隠岐・壱岐両嶋に分遣せしに、享和元年八月以上五ヶ所[大坂・堺・京・伏見・奈良]の流人を打混じ人数甲乙無きよう順番に、(一)隠岐・肥後天草郡 (二)薩摩・肥前五島・壱岐島に遣はすべしとの命あり」などの発遣の手順の記載がある。そして、「最終的な日時と配船は大坂町奉行流人掛と大坂御船手のもとで詰められている。」とある。(p.125)
■『江戸の二十四時間』(林美一/著 河出書房新社 1989.1)
「捕物補記 三都の遠島刑」(p.291-293)に次の記載がある。
「上方だが、これはすべて流刑人を大坂に集めて壱岐・隠岐の両島へ送る(古くは天草へ送ったこともあった。)京都の場合は六角の牢屋から三條通を東へ出て、二條河原町の角倉屋敷前の舟入から高瀬舟を仕立てて高瀬川を下り、伏見に入って宇治川に乗入れ、西へ下って淀川へ出、大坂で他の土地から集ってきた流罪人たちと合流し、大坂の安治川口から本船に乗って流罪地へ向う。森鷗外の名作『高瀬舟』はこの京都から大坂へ送られる流罪人を素材としたものだが、流罪人と護送の同心が一対一で舟に乗り、身の上話を聞くというのは、いささか非常識すぎる設定である。(中略)壱岐・隠岐の流罪地は、はじめ壱岐だけだったが、一島だけでは島での迷惑も大変なので、江戸時代後期の寛政(一七八九~一八〇一)以後になって隠岐を増やして二島とし、大坂関係は隠岐へ、他は壱岐へ送られることになった。」(p.292-293)
■『江戸の刑罰(中公新書)』(石井良助/著 中央公論社 1979)
「八丈島送り-自由刑- 高瀬舟の行方(遠島)」(p.70-75)に次の記載がある。
・「遠島は島流しのことで、当時流罪とも呼ばれている。江戸からは、大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島の七島のうちに、京、大坂、西国、中国からは、薩摩、五島の島あるいは隠岐、壱岐、天草郡へ送る。」(p.70)
・「関西の流人は大坂に集めて出船したが、京都の流人を大坂へ送るには、高瀬船に載せて京都町奉行の同心が守護して送るのである。」とあり、「あるとき、舟中、皆が別離に苦しみ悲嘆している中に、世にも嬉しげなる者がいるので(後略)」と話の記載があり「この物語を小説にしたのが森鷗外の『高瀬舟』である。」(p.75)
[事例作成日:2023年2月22日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 法制史 (322 10版)
- 参考資料
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- 高瀬舟 森/林太郎∥著 春陽堂 1918 (2)
- 日本行刑史 増補版 滝川/政次郎∥著 青蛙房 1964 (247)
- 大坂町奉行と刑罰 藤井/嘉雄∥著 清文堂出版 1990 (339-340、342、345-346)
- 日本流人島史 重松/一義∥著 不二出版 2011.11 (125)
- 江戸の二十四時間 林/美一∥著 河出書房新社 1989.1 (292-293)
- 江戸の刑罰 石井/良助∥著 中央公論社 1979 (70、75)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000330033