レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年08月07日
- 登録日時
- 2024/08/18 16:07
- 更新日時
- 2024/09/06 21:34
- 管理番号
- 県立長野-24-095
- 質問
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解決
明治期松本市で医師をしていた斎藤俊蔵氏について書かれた資料はあるか。
- 回答
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斎藤俊蔵氏について、個別にまとまった資料は確認できなかった。
当館資料、および国立国会図書館デジタルコレクションを「斎藤俊蔵」で調査した中で、いくつかの資料に斎藤氏の名前があったが、詳しい記述は確認できなかった。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるものを中心に紹介した。[各リンク先の最終確認2024.8.29]
・『明治医家列伝 第1編』近藤修之助ほか著 近藤修之助刊 1892-1894 [送信サービスで閲覧可能 61-66コマ]
p.100-110 「土岐政次郎先生之伝」のp.107-108に、明治16年頃の記述の中で、友人斎藤俊蔵氏ニ謀ル氏ハ時ニ長野県黴毒病院長タルヲ以テ先生ヲ挙ゲテ其副医院長(月俸金四十圓)ト為ス
とあった。
・『中外医事新報』326号 日本医師学会編・刊 1893.10.20 [ 34コマ] p.60「南信地方部」に去月三十日松本町桜河岸松濤亭に於て発会式を行へり(-中略-)斎藤俊蔵氏の演説(-後略-)
とあり、大日本医会南信支部の発会式で演説したことが書かれている。
・『大日本医会報告 第6回』大日本医会 明治27-32年 [107コマ]
第1回から6回まで、住所は松本町(現・松本市)となっている。
・『町村自治要覧 東筑摩郡ノ部』桐原直躬編 自治舎 1902 [10コマ]
p.9に大名町、新町衛生組合長
斎藤俊蔵 仝卅三年四月
松崎尚忠 仝卅三年四月とあった。大名町は松本町の地区名。
・『日本杏林要覧』日本杏林社編・刊 1909( 314コマ)p.523に、斎藤俊蔵 【履歴17年5月】北海道士族、安政元年生 北深志乙979
とあった。北深志は松本町の地区名。
・『新松本繁昌記』新信州社 1969【N233/36】[送信サービスで閲覧可能 13コマ]
p.256-260に、大正期の大名町の街並みを描いた地図があり、「斎藤医院」の標記とともに、斎藤俊蔵氏の名前もみえる。p.260の文末に「斎藤は外科医として有名。」とある。
・『日本医籍録』医事時論社編・刊 1925[ 724,719コマ] 長野県p.14 に斎藤俊蔵 川島村上島979
安政元年生十一月十日生 奉職履歴明治17年■2064号下附(※ ■は判読不能)
長野県p.4 に斎藤俊 北深志71ノ1
外科 斎藤医院 明治十八年十一月廿二日生
大正四年東大医科卒■38335号 日赤本社病院外科勤務後大正五年現地開業とあった。川島村上島は、現在の上伊那郡辰野町川島、北深志は松本市。『日本医籍録』大正15年版を最後に、同シリーズでは斎藤俊蔵氏の記載は確認できない。
・『日本医籍録 昭和9年版 中部版』医事時論社編・刊 1934 [ 78コマ]
長野県p.6 の「斎藤俊」では、住所が大名町になっており、大正5年現地開業とある。医院の場所は変更がなく、住所表示のみが変遷しているものと考えられるため、斎藤俊蔵氏と斎藤俊氏は血縁関係がある可能性が高いと思われる。
・『松本之人々』岡本黙骨著 松本之人々発行所 1921 [ 46コマ]
p.63「自由業の人々」のp.65に「斎藤俊」が見られる。
・『長野県勢総覧 下巻』川上七五三著 長野県勢総覧刊行会1928 [送信サービスで閲覧可能 365コマ]
p.704「斎藤俊英」に「明治二十四年一月二十四日生(-中略-)氏は松本市の出身で斎藤俊蔵氏の三男に生まれ」とあった。
・『松本市医師会八十年史』松本市医師会 1990【N490/6a】
p.37 明治20年の「東筑摩郡松本南北深町外六ヶ村偉業組合員人名」に斎藤俊蔵氏がみられるほか、明治から大正期にかけて記述が散見される。・『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 別篇 人名』東筑摩郡松本市・塩尻市郷土史料編纂会編・刊 1982【N233/10/別2】[送信サービスで閲覧可能]
人物が列挙されている箇所には、斎藤俊蔵氏は確認できなかった。
p.566に、明34年10月25日の「普通選挙同盟会役員」の規約と委員・評議員の名前がある中に「斎藤俊蔵」が見えるが、同一人物か確定できない。
・『松本市史 第2巻 歴史編3 近代』松本市編・刊 1995【N233/106/2-3】
p.69-74,266-270に明治初期の松本の病院・医師についての記述がある。この中に松本医黌兼(いこうけん)病院の医師や、駆黴(くばい)院についての記述もあるが、斎藤氏についての記述は確認できない。
p.344-349にも、明治20から30年代の感染症に関する記述があるが、斎藤氏の名前は確認できない。
p.532-539の大正期の記述でも同様。
・『長野県医療史』医療タイムス社編・刊 1987【N498/130】
巻末年表p.324-303 「明治篇」に、松本の駆黴院についての記述が散見されるが、斎藤氏の名前の記載はない。・『松本市史』松本市編・刊 1933【N233/17/2】[送信サービスで閲覧可能 258-268コマ]
p.472-493に「衛生」についてまとめた章があり、明治初期からの松本の医療体制、各病院の変遷、院長などの名前が見られるが、斎藤氏の名前は確認できなかった。
・『辰野町誌 近現代編』辰野町誌編纂専門委員会編 辰野町誌刊行会 1988【N242/108/1】
p.203-219に「保険衛生」についてまとめた節があり、明治以降の辰野町の医療体制、個人開業医の一覧などがあったが、斎藤氏の名前は確認できなかった。
- 回答プロセス
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1 『長野県姓氏歴史人物大辞典』長野県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 角川書店 1996【N288/158】、『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989【N283/13】を調べるが、斎藤氏の記述はない。
2 明治期の松本市で医師をしていたとのことから、『松本市史 第2巻 歴史編3 近代』を調べていくが、斎藤氏の記述はない。
3 医師会の記念誌を探す。郷土資料に絞って、「医師会」で蔵書を検索する。『松本市医師会八十年史』を調べる。明治から大正期にかけて記述が散見されるが、具体的な記述は少ない。。
4 『長野県医療史』『長野県医師会史』等を見るが、斎藤氏の記述はない。
5 国立国会図書館デジタルコレクションを「斎藤俊蔵」で検索する。ヒットしたものから、NDC分類28(伝記・名簿類)と49(医学)分野のものを探す。何点か、記述のあるものを見つける。
6 『明治医家列伝 第1編』にあった長野県黴毒病院長であったとされる記述から、『長野県史 近代資料編 第8巻(2)社会 衛生・防災』長野県編 長野県史刊行会 1987【N209/11-1/8-2】[送信サービスで閲覧可能]の医療活動 医薬施設を見ていったが、掲載されている文書類に斎藤氏の名前は確認できなかった。
7 当館契約のまた、長野県の代表的な地域新聞である『信濃毎日新聞』の「信濃毎日新聞データベース」で、明治10年代の新聞を「斎藤」「駆黴」「梅毒」「松本 病院」などで検索したが、着任等の情報はヒットしなかった。1995年以前の記事については、主な記事にキーワードを振った形での検索になっており、すべての記事内容を検索出来る仕様ではない。
8 初期の松本の病院が県立の組織だったことから、当館所蔵の『長野県職員録』を調べた。明治10年代で調査できたのものは、明治12年と16年のみ。記載事項に、病院職員の掲載はなく、明治16年の医学校の教職員のみ記載。どちらの職員録にも斎藤氏の名前は確認できない。
9 5でヒットした資料の記述から松本城の南側の大名町で開業していたようなので、『新松本繁昌記』などを調べる。
10 『日本医籍録』の住所が「川島村上島」とあることから、『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1990【N293/18】で確認すると、現在の上伊那郡辰野町とわかる。『辰野町誌 近現代編』を調査するが、「斎藤俊蔵」あるいは、「斎藤医院」等の記載は確認できなかった。
<調査資料>
・『松本市史 第4巻 旧市町村編』松本市編・刊 1995【N233/106/4-1】
・『大正五年一月 長野県医師名簿』[著者:不明]【N490/9】(筆による手書きのもの)
・『五十年史』青木成喜編 松本市医師会 1957【N490/6】
・『長野県医師会史』長野県医師会編・刊 1966【N490/7】
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 10版)
- 医学 (490 10版)
- 参考資料
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新松本繁昌記. 新信州社, 1969.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001215130 (【N233/36】) -
松本市医師会八十年史編集委員会 編著. 松本市医師会八十年史. 松本市医師会, 1990.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002086179 (【N490/6a】)
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新松本繁昌記. 新信州社, 1969.
- キーワード
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- 斎藤俊蔵
- 松本市--明治時代
- 医業
- 医師
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000354557