レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年06月16日
- 登録日時
- 2016/02/04 17:17
- 更新日時
- 2016/09/06 13:49
- 管理番号
- 埼熊-2016-028
- 質問
-
解決
忍藩士(元桑名藩士)で国学者であった黒沢翁満の藩士としての身分や事歴が分かる史料をみたい。特に大阪詰(留守居役、蔵屋敷詰)に関することや翁満の門人で忍藩士といわれる岡村覚太郎の身分や事歴について知りたい。
- 回答
-
黒澤翁満の事歴について記述のある資料と、岡村覚太郎が明治元年開講の国学館で教師をしていたことの記述のある資料を確認でき、これを紹介した。
『渡辺刀水集 2〈日本書誌学大系47(2)〉』(青裳堂書店 1986)
p273-326「黒沢翁満」 初出:「国学院雑誌 38(7)-39(2)」昭和7年7月-昭和8年2月
p279-280「翁満が藩侯から抜擢されて用人になり、大阪の倉屋敷に毎年半期づつ勤務する様になったのは弘化元年ごろのことであるといふ。(後略)」
p293 再び黒澤翁満に就て「(略)資料が十分でない為め意に満たぬものがあった。其後更に資料の蒐集に勉め、殊に翁満の嫡孫黒澤裕雄翁を尋ね当て、同家に蔵する遺物遺書手簡等を多数閲覧することを得て、翁満の調査に一段の進展を見た。(略)」
p311-312 九 大阪蔵屋敷の勤務 大阪時代の記述あり。
『行田史譚 行田市史別巻』(森尾津一著 行田市史編纂委員会編 行田市譚刊行会 1976)
p217「国学館」 「明治元年九月二十五日培根堂内北学寮を国学館としてその月の二十八日に開講した。教師には黒沢翁満の子転(うたた)と、翁満の門人である木村御綱、岡村覚太郎、田中千村(算翁)等であった。明治四年廃藩と共に廃され短いものであった。」とあり。
p312-319「(3)歌人と俳人」
p312「(1)黒澤翁満」「黒澤氏は忍藩の家禄二百石の藩士である。その祖先は黒澤出羽守景次。(中略)寛政七年三男一女の長男として生まれた。彼は忍へ移封となり御旗奉行にまでなつた。弘化元年五十三歳の時大阪御留守居となり、安政六年四月二十九日六十七歳で大阪蔵屋敷で歿した。大阪市天王寺区珊瑚寺に葬る。正面に黒澤翁満墓、側面に誠忠院圓應翁満居士とあり、(後略)」とあり。
- 回答プロセス
-
1 自館目録を確認する
〈黒沢翁満〉で検索する。
『渡辺刀水集 2〈日本書誌学大系47(2)〉』(回答資料)
『武州埼玉郡忍行田史料拾遺 4』(長谷川宏編 長谷川宏 1977)
p1 黒沢翁満について解説あり。「彼の伝記については渡辺刀水の「黒沢翁満」「再び黒沢翁満に就いて」(「郷土の偉人研究1」 埼玉県立埼玉図書館 昭和12年刊)を最も信頼できる記述とするよりしかたがない。」とあり。
上記資料より『郷土の偉人研究 1 埼玉図書館叢書 第3編』を確認する。
『郷土の偉人研究 1 埼玉図書館叢書 第3編』(渡辺刀水著 埼玉県立埼玉図書館 1937)
p60-109 黒沢翁満 『渡辺刀水集 2』と同内容。
〈埼玉 & 人物〉で検索する。
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
p317 「くろさわ おきなまろ 黒沢 翁満」の項目あり。
「寛政7-安政6.4.29(1795-1859) (略)諱は重礼。幼名太郎市。通称八左衛門。九蔵とも称した。(略)藩の用人として毎年半期ずつ大阪の倉屋敷に在番するようになり、(略)弘化1年(1844)大阪御留守居となり、安政6年同地で没する。(略)著『葎居集』『万葉集大全』『古今集大全』『難波職人歌合』『消息案文』など」
『埼玉県人物誌 上巻』(埼玉県立文化会館編 埼玉県立文化会館 1963)
p105「黒澤翁満 その後進修館で国学を教授し、また藩の用人として、年毎に半期を大阪の蔵屋敷に在番するようになったため、その門人は単に忍藩およびその周辺にとどまらず、江戸大阪、伊勢等の各地に及び、その数は数百人とさえ称されていた。」
『埼玉県人物誌』(付録)
p182-184「黒沢翁満」 『埼玉県人物誌 上巻』とほぼ同内容。
〈行田 & S(埼玉資料) & NDC分類2類〉で検索する。
『行田史譚 行田市史別巻』(回答資料)
『行田市史 資料編 近世2』別冊附録「御分限帳」
p5 解説に「旧藩主松平忠国家公之御時世安政六年の頃の調査に係る納方役場の控簿」とあり。
p12 「寄合」の項 「一 弐百五拾石 黒沢九蔵 安政六未年六月十六日家督」とあり。
p59-60「大坂御留守居支配」「御足軽」「古市順内組御旗之者四人 御目見小頭 岡村宗七郎 一弐拾七石九斗八升八人扶持 内 小頭壱人 八石 平三人 六石六斗六升ツツ」とあり。
解説p3「松平家の分限帳のうち忍藩時代の史料は、柴田家文書(行田市郷土博物館寄託)中の嘉永六年(1853)と推定されるものが『埼玉県史調査報告書分限帳集成』に全文掲載されているほか、大沢俊吉著『松平家四百年のあゆみ』、『行田市史』下巻、『行田史 譚』には嘉永七年とされる分限帳が掲載されている。」とあり。
『行田市史 下巻』(行田市史編纂委員会編 行田市 1964)
「(二)忍城主松平氏分限帳 -役名順- 」
p161「これは嘉永七年(1854)のものと推定される。注釈的説明は、森尾津一氏の附記である。」とあり。
「○御用人 家老の補佐役で、実際に藩政を司る。二百五十石以上である。江戸定詰料は二十六両二分十匁」の項
p163「二百五十石 御勝手老中奥向掛 黒沢 八右〔ママ〕衛門」とあり。
p164「○寄合衆 非職者の集まりである。其内肝煎は欠員があれば直に就職するのである。」の項に「黒沢九蔵」はなし。
2 参考図書を確認する
『日本人物情報大系 第46巻(学芸編 6) 国学者伝記集成』(芳賀登〔ほか〕編 皓星社 2000)
p71-73「黒澤翁満」 「経歴 桑名藩に事へ、常に鈴屋翁の学風を慕い、古学を研究す。後藩侯の奥州白川、武州忍に領替を命ぜられ、從て各地に移り、後、大阪の留守居役となり、大坂堂島の忍藩邸にありて、浪華の文学を發揚せり。」
「有功卿と翁満との往復の書簡」あり。
3 インターネット情報を確認する
《Google ブックス》(https://books.google.co.jp/ Google)を〈黒沢翁満〉で検索する。
『新編埼玉県史 資料編12(近世3)文化』(埼玉県編 埼玉県 1982)
p23「桑名出身の黒沢翁満(1795-1859)」の記述あり。
p24-26「黒沢翁満」 「翁満は忍藩松平下総守家臣、諱重礼、通称八左衛門。寄合、物頭、旗奉行、小姓頭、用人勝手方在中懸兼勝手元締、大阪蔵元談筋懸合などを歴任、禄高二百五十石、晩年には足高があって三百五十石、安政六年大阪蔵屋敷において死亡、六十五歳であった。(以下省略)」とあり。
その他確認済資料
『大日本人名辞書 2 カミヤ-タナカ 講談社学術文庫 505』(大日本人名辞書刊行会編 講談社 1980)
『北武八志』(清水雪翁著 歴史図書社 1979)
『分限帳集成 埼玉県史調査報告書』(埼玉県県民部県史編さん室編 埼玉県県民部県史編さん室 1987)
「一六 嘉永六年〔1853〕 松平忠国家中分限帳「忍藩分限帳 嘉永六年丑三月改 少将忠国公御代」」
p162 「御用人」の項 「一 三百五十石 内百五十石御足高 内百石御年限中半渡り 黒沢八左衛門」
p164 「寄合」の項 「一 同〔三人扶持〕黒沢九蔵」
『松平家四百年の歩み 長篠城より忍城へ』(大沢俊吉著 講談社音羽サービスセンター(製作) 1970)
p164-166 「黒沢翁満の事」「歌人で有名な黒沢翁満は古く亀山藩時代からの下総守家臣で、黒沢八郎右衛門二百五十石の九代目八郎右〔ママ〕衛門重礼であり、先祖は下総守と共に各国を国替えし、この桑名より忍へ移転したが、御用人、御勝手、そして大坂留守役となって堂島の忍藩邸に住み、(略)安政六年四月廿九日大坂に没した。」とあり。
p202 「国学館」 「洋学館とならび明治元年九月培根堂の北学寮を国学館とし、廃藩まで続いた。黒沢翁満の子、転(うたた)、門人木村御綱、岡村覚太郎、田中千村等が教師となり(略)」とあり。
ウェブサイトの最終アクセス日は2016年6月16日。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 伝記 (280 9版)
- 参考資料
-
- 『渡辺刀水集 2〈日本書誌学大系47(2)〉』(武蔵村山 青裳堂書店 1986)
- 『行田史譚 行田市史別巻』(森尾津一著 行田市史編纂委員会編 行田市譚刊行会 1976)
- キーワード
-
- 黒沢 翁満(クロサワ オキナマロ)
- 岡村 覚太郎(オカムラ カクタロウ)
- 忍藩士
- 大阪
- 桑名藩士
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187865