レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年05月25日
- 登録日時
- 2024/12/03 12:37
- 更新日時
- 2024/12/13 13:33
- 管理番号
- 地-240005
- 質問
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解決
神奈川県庁が現在の場所に建設された経緯を知りたい。
- 回答
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次の資料を紹介しました。
・『神奈川縣廳物語 本庁舎建設60周年記念』神奈川県出納局 1989
本庁舎の建設六十周年を記念して編集された資料です。
p.44~52「神奈川県庁舎の歴史」、p.53~82「神奈川県庁の生い立ち」、p.83~118「4代目県庁舎の建設」に、初代~4代目それぞれの県庁舎に関する詳細な情報が掲載されています。
その中に、p.66~67「県庁舎の移りかわり」として、日本大通り付近の建物の変遷が図示され、合わせて県庁舎の位置の変遷も伝えています。
p.81のコラム「さまよえる県庁舎敷地」では、三代目庁舎が関東大震災で焼失した後、四代目庁舎の建設地をめぐる動きが記載されています。
また、p.56~57に「県庁舎の本籍地を決めた先達 井伊直弼」の項があり、1858年5月の日米修好通商条約によって取り決められた開港場「神奈川」を、具体的にどこにするかをめぐり、次のように記載されています。
「表向きの理由として「神奈川海岸は遠浅で船の停泊に不便であるから、荷役のしやすい横浜が最適(以下略)」と直弼は主張している。」、「干拓工事は突貫に突貫を重ね、やっと波止場をはじめ外国人居留地を完成させた。」とあります。
・『横浜港の生い立ちと税関』横浜税関総務部税関広報室 2007
本書は開港当時の横浜港の姿と、昭和30年代まで貿易の中心であった新港埠頭の建設の経緯等についてとりまとめた資料です。運上所の設置にあたり、現在の横浜市中区日本大通付近がなぜ選ばれたのかについて、以下の記述があります。
「1.東西波止場と運上所(税関)付近の変遷」中、p.2「①幕末の状況」によると「当時の開港場には輸出入貨物の蔵置施設がなかったため、貨物を船舶に積んだまま通関手続が開始されていた。」とあり、運上所は港(海)に面しているほうが都合が良いことが窺えます。
この運上所について、「②明治初期の状況」によると「運上所の機能は、幕府の崩壊後は明治新政府に引き継がれ、一時は新設された神奈川県に委ねられていたが、明治4年(1871)8月、大蔵省に引き継がれた。この本庁舎の建物は明治6年(1873)12月に初代の税関庁舎が建築されるまで運上所またはその後身の役所の庁舎として用いられ、その後は神奈川県庁が入居していたが、明治15年(1882)12月の火災により焼失した。」とあります。
なお、p.4「③初代税関庁舎の時代」には「初代の税関庁舎は波止場からやや離れていたため、通関手続には不便であった。そこで明治15年(1882)、当時の有島武税関長が移転を考慮していたところ、たまたま同年、神奈川県庁舎が火災により焼失したため、税関庁舎を県に8万円で譲渡し、新しい税関庁舎を日本大通の突き当たり(海岸通に面した海側の区画)に建設することとなった。」とあります。
・『神奈川県建築史図説』神奈川県建築士会 1962
p.221~222「151 神奈川県庁」の項に、初代庁舎から3代目までに至る移転の経緯が簡潔に述べられています。
・『「キングの塔」誕生! 神奈川県庁本庁舎とかながわの近代化遺産』神奈川県立歴史博物館 2013
p.14~25「第Ⅰ章 擬洋風・コロニアル・バロック―初代・二代・三代神奈川県庁舎の歴史―」に、図版と解説が記載されています。
p.26~50「第Ⅱ章 「キングの塔」誕生!―四代目神奈川県庁舎の建築とその魅力―」に、現在の県庁舎である四代目に関する図版、写真、解説が記載されています。
- 回答プロセス
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神奈川県庁舎をキーワードとし、検索した結果をもとに複数の資料にあたった。併せて、運上所の建設地としてなぜ、現在の横浜市中区日本大通付近が選ばれたのかについても調査した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本の建築 (521 10版)
- 関東地方 (213)
- 参考資料
- キーワード
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- 神奈川県庁
- 本庁舎
- 運上所
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000359985