レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2023年11月08日
- 登録日時
- 2024/11/02 10:39
- 更新日時
- 2024/12/13 13:29
- 管理番号
- 地-240001
- 質問
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解決
文化3年頃、ある紀行に大磯から馬で現在の埼玉県川越市へ「なまり節」を運ぶ商人がいたという記述があるが、大磯は「なまり節」製造が盛んであったのか。
- 回答
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大磯において「なまり節」の製造が盛んであったかどうかの記述がある資料を見つけることはできませんでしたが、参考までに、関連しそうな記述のある資料をご紹介しました。
・『大磯町史 6 通史編 古代・中世・近世』大磯町 2004
「第三章 近世 第四節 村と人々の暮らし」(p.355-447)中、p.406-432に「五 漁業と浦の暮らし」が立項されています。
江戸時代の大磯浦の漁師の生活や漁場、運上や魚の輸送などについての記載があるものの、なまり節などの加工品についてや、川越方面への輸送についての記述は見つけることができませんでした。
なまり節の原料となる鰹については、p.426に「鰹漁は相模湾内でも真鶴から内側の地海といわれた真鶴から江の島沖までが良好な漁場で大磯・小磯沖は鰹漁の中心的漁場の一つであった」と記述されています。
・『大磯町史 8 別編 民俗』大磯町 2003
「第三章 交通・運輸・交易 第四節 交易」(p.364-388)中、p.369-386に「三 おもな商店」が立項されています。
p.369-376「魚屋」中、p.375に「図3-7 魚屋・宮與の広告『大磯案内』(昭和5年)」が掲載されており、図中に「鮮魚。鰹節」との記載があります。
p.377「かつお節商」に、南下町の魚問屋で地曳の網元であった濱乃家が戦時中までかつお節商をやっており、京浜地区の問屋に卸していたことなどの記述があります。同ページには「3-60 かつお節商「濱乃家」の看板」、「3-61 濱乃家の商品券」として、写真がそれぞれ掲載されていますが、なまり節に関する記述は見つけることができませんでした。
また、「第四章 衣食住 第二節 食生活」(p.408-427)中、p.424-426に「魚・海産物」が立項されており、p.425に「大磯の米屋では、(中略)魚は、ウオアサから(配偶者の兄の店)小僧が、その日とれた魚を担いで、持ってきた。(中略)ソウダガツオが沢山とれたときは、一日干しくらいでナマリ節にした。よく乾かすと鰹節になる。」との記述があります。
・『大磯誌(コピー複製)』 河田羆著 冨山房 1907 ※ページ付なし
「物産」の項に「此地は元漁業を専らとする地なれば。海産物最も多く。其中主なるものは。(中略)鰹(中略)等あり。」との記述がありますが、なまり節についての記述は見つけることができませんでした。
当該資料は、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)にて、インターネット公開されています。
【資料のURL】https://dl.ndl.go.jp/pid/992284 【該当ページのコマ数】70-71コマ
・『海と生活 No.1 相模湾の魚と漁撈 夏期特別展 1981年7月21日~8月30日』平塚市博物館 1981
p.24-26に「4.ボテイと魚の加工」が立項されています。大磯ではありませんが、p.26「魚の加工」に、大磯町と隣接する平塚市に関して、「加工製品と材料(平塚市須賀)」の一覧表が掲載されており、「(加工製品)ナマリブシ (材料)カツオ」と記載されています。
- 回答プロセス
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大磯町の自治体史等を中心に、周辺地域の漁労関係資料を確認した。
・『かつお節と日本人』<667.2/102>(22702765)
→江戸期の話はほとんど所収されていなかった。また、神奈川県内の状況も記載がなかった。
・『関東地方の漁村・漁撈習俗 2(日本の漁村・漁撈習俗調査報告書集成 第4巻)』神奈川県教育委員会編 東洋書林 海路書院 2003
→東京内湾、東京外湾、相模湾の調査報告書掲載
相模湾は「横須賀市佐島」、「小田原市米神、江の浦」、「真鶴市真鶴」の3か所に関する調査、大磯及び隣接地域はなかったため対象からはずした。
昭和12・13年の県水産試験場の報告→三崎に関する記述がみられるが、大磯方面は記述がなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 10版)
- 水産製造.水産食品 (667 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 大磯町
- 漁業
- なまり節
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000359028