レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/05/22
- 登録日時
- 2018/06/02 00:30
- 更新日時
- 2018/07/18 15:38
- 管理番号
- 1103804
- 質問
-
未解決
気仙沼にある興福寺の半鐘は戦時中に国に供出されたが使用されず、イギリスに渡り北アイルランドの修道院に置かれていた。その後、ボツワナ共和国に移動し、平成6年に興福寺に戻ってきた。
この半鐘について以下の3点を知りたい。
①供出後の半鐘がイギリスに行くまでどこに置かれていたか。
②日本のどこの港からイギリスへ渡ったのか。
③半鐘がイギリスの物となった経緯。
<半鐘のイギリスに渡った後の経過>(質問者が興福寺より聞いたもの)
鐘は北アイルランドの首都ベルファストの修道院にあったものを,ボツワナの首都ガボローネの協会のジュリアン・ブラック神父が休暇でベルファストに帰省した際,この鐘に目をつけて1974年頃,ガボローネに運んだ。
【5月8日追記】
個々の物品の金属供出後のルートについては調査不能との連絡を受け,質問者に確認。調査範囲を,「宮城県の」金属供出後のルート,に広げ,調査をお願いしたいとのこと。
- 回答
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興福寺(気仙沼市)の半鐘ないし梵鐘が北アイルランドに渡るまでのルートを説明するような文献を探しました。他府県の事例や国内一般の梵鐘のルートを記述する文献がいくつか見つかりましたが、興福寺のもの、あるいは宮城県の梵鐘供出ルートを直接説明するような文献は見当たりませんでした。
既にご参照のとおり、『朝日新聞』には返還当時(1994年10月)の記事がいくつか見つかりますが、次の記事1】に、日本の国立博物館が「「おそらくイギリス軍が持ち帰ったのだろう」と言っていた」とあります。
1】「軍需用供出の釣り鐘、50年ぶりに里帰り 気仙沼・興福寺 /宮城」(『朝日新聞』(1994.10.15)宮城面【YB-213】)
※「鐘は一九五〇年代半ばには北アイルランドの修道院にあった」ともあります。
供出される梵鐘の取り扱い一般については次の文献2】を見つけました。
2】杉浦熊太郎「梵鐘の應召」(『物資』5(11)(1942.11)pp.23-26【雑37-107】) 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館館内公開/図書館送信参加館内公開)
※「寺院から供出される物でも梵鐘だけは特に別の取扱ひ方になる。/回収機関である金属回収統制会社は其の現物で品名と個数とを記した仮受領證書を寺院側にお渡して〔ママ〕梵鐘を引取り其の寺院所在の府県の所属する製錬所へ日本通運の手で直送することになって居る。」(p.25)
東京の例ですが、文献3】の米国から返還された西新井大師(東京都足立区)の梵鐘は、1944(昭和19)年に供出後「どこをどうたどったのか、長崎県・佐世保港の火薬庫跡のスクラップの山に埋もれていた」のを、「米巡洋艦「パサデナ号」のJ・H・ドイル大佐という艦長がこれを発見、終戦の記念として米国へ持ち帰り、艦名と同じパサデナ市へ寄贈した」とのことです。
3】「[江戸から昭和へ]東京の史跡を歩く 西新井大師 除夜に鳴る日米親善の鐘」(『読売新聞』1983.12.26朝刊 p.21都民版)
同じく東京の1942年の例ですが、次の文献4】によると、梵鐘は寺が立地する地区の役所にいったん集められたようです。
4】「応召の鐘に“壮行会”」(『読売新聞』1942.11.22夕刊 p.2)
他にも敗戦直後の梵鐘一般に関して近畿や中部地方の事例で文献5】6】のような回想が見つかりました。
5】「付 梵鐘の供出」(『大阪府の文化財』大阪府教育委員会,1962,pp.89-91【709.2-O775o3】) 国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館館内公開/図書館送信参加館内公開)
※「終戦後集荷会社の広場のあちこちに、白日に曝されながら無数の応召具類が横たわっていた。~商工課でも仏教団でも鐘の返還先が判らぬところが多かった。鐘銘によって調べたが、集荷所に残されてある鐘には他府県のものも随分多い」(p.91)
6】「梵鐘の戦争:6 生き残りの鐘、各所に(空白への挑戦)」(『朝日新聞』1989.12.26.夕刊 p.3【Z99-5】)
※「~四日市市の石原産業に飛んだ。米軍機の爆撃を受け、荒れ放題の工場に、梵鐘が入り乱れ、転がっていた。~入隊前は原料の梵鐘受入れ係で、一転、鐘を返す担当になる。~が、受け入れ台帳がないので混乱した」
宮城県内公共図書館所蔵郷土関係論文目録(宮城県図書館 叡智の杜Web)を検索すると次の文献が宮城県の梵鐘供出の記事としてヒットしますが、当館未所蔵の雑誌のため、確認できませんでした。
・遠藤 博「昭和十八年応召 : 川上十一面観音堂梵鐘記」(『郷土なとり』(4)pp. 51-57 1991【当館未所蔵、宮城県図書館所蔵】)
◯探索ポイントを説明します。
英語で関連記事がないか検索しましたが、見当たりませんでした。
日本語で返還当時の情報を探したところ、1950年代半ばにベルファストにあったという情報と、日本の国立博物館による推測が得られました。
戦時中の半鐘ないし梵鐘、銅、金属の供出についての文献を探索しました。また、梵鐘供出の他の事例を探索しました。レファレンス協同データベースのレファレンス事例により関連文献が見つかりました。
◯以下に参照したその他の文献・サイトなどを列挙します。
・ProQuest ※当館契約データベース
・聞蔵IIビジュアル ※当館契約データベース
・ヨミダス歴史館 ※当館契約データベース
・皓星社 雑誌記事索引集成データベース(ざっさくプラス) ※当館契約データベース
・国立国会図書館デジタルコレクション
・地方史に関する文献を探すには 各地の郷土関係文献目録・データベース(調べ方案内)>宮城県内公共図書館所蔵郷土関係論文目録(宮城県図書館 叡智の杜Web)
・レファレンス協同データベース
※【 】内は当館請求記号です。請求記号のないものはウェブサイトです。
※上記で参照したウェブサイトでURL表記のないものは次のリンク集にあります。
・人文リンク集(国立国会図書館)
http://rnavi.ndl.go.jp/humanities/jinbunlinks.php
※ウェブサイトの最終アクセス日は2018年5月17日です。
※『朝日新聞』『読売新聞』の記事は上述のデータベースサイトを利用しました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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・半鐘のイギリスに渡った後の経過(興福寺から聞いた情報)
鐘は北アイルランドの首都ベルファストの修道院にあったものを、ボツワナの首都ガボローネの教会のジュリアン・ブラック神父が休暇でベルファストに帰省した際、この鐘に目をつけて1974年頃、ガボローネに運んだ。
・産経データベース」(産経新聞社)を<ボツワナ><鐘>で検索すると、1994年10月13日夕刊社会面の「戦時供出の鐘51年ぶりに戻る」という記事の中で、「須田住職によると、半鐘は戦勝国のイギリスが本国に持ち帰り、北アイルランドのベルファストで約三十年間使用されたあと、ボツワナに持ち込まれ、さらに約二十年間使われていたという。」と記載されている。
・『国立博物館ニュース』571号(平成6年12月1日)の「梵鐘 ボツワナより帰国す(1)」の中では、「鐘ははじめ北アイルランドの修道院にあったもので、一九七六年に休暇でたまたまそこを訪れたBlack神父が、かねて神学校に時を知らせる鐘がないので探していたため、これを譲り受けてボツワナまで運んだ」と記載されています。
※Black神父は神学校の責任者。
【調査済資料】
・『国立博物館ニュース』 571号(平成6年12月1日)縮刷版
・『梵鐘の研究』坪井良平著 ビジネス教育出版社 1991.7
・『梵鐘』坪井良平著 雄山閣 1927(考古学講座 第16号)
・『気仙沼市史 7 民俗・宗教編』気仙沼市史編さん委員会編さん 気仙沼市 1994.2
・『気仙沼町誌』気仙沼町誌編纂委員会編 臨川書店 1989.11
・『慶長末年以前の梵鐘』坪井良平編輯 東京考古学会 1939(東京考古学会学報 第2冊)
【調査済データベース】
・産経データベース
・雑誌記事索引集成データベース ざっさくプラス
・MAGAZINEPLUS(マガジンプラス)
・毎索(まいさく)
・聞蔵Ⅱビジュアル ”ボツワナ 梵鐘” 関連記事3件 いずれも質問回答となる記述なし。
・ヨミダス歴史館 ””ボツワナ 梵鐘” 関連記事1件 いずれも質問回答となる記述なし。
・インターネット ”興福寺 半鐘”
個人ブログ等,関連記事ヒットするも質問回答となる記述なし。
「隅田金属日誌」に”『国立博物館ニュース縮刷版』平成6年12月号にあった「梵鐘ボツワナより帰国す」で見つけた話”と記述あり。
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 人文(レファレンス)
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000236673