レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年7月13日
- 登録日時
- 2017/07/30 14:08
- 更新日時
- 2017/08/09 13:09
- 管理番号
- 県立長野-17-072
- 質問
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未解決
中世の諏訪神社の権祝(ごんのほうり)を務めた矢島政継の生没年や祝職にあった年代を知りたい。
- 回答
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矢島政継の生没年や事績について記載のあるものは、当館の資料では確認できなかった。
なお、調査資料のうち、国立歴史民俗博物館の学術情報リポジトリ【2017.7.13最終確認】に井原今朝男「神社史料の諸問題」『国立歴史民俗博物館研究報告』148集(2008)【2017.7.13最終確認】に、権祝矢島家所蔵文書「諏方上宮権祝系図」(諏訪市立博物館寄託資料)が引用されている。この系図について、諏訪市立博物館へ問い合わせたところ、「ほとんど『信濃史源考』に取られているものと同じで、政継の権祝職の就任年などの記述はない。添え書きに「幼名近長丸後左衛門尉職ヲ継グ」(電話での聞き取りのため読み下し)とある。」と回答を得た。閲覧可能な資料だが、事前に諏訪市立博物館(0266-52-7080)へ問い合わせをしてほしいとのこと。
- 回答プロセス
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1. 事前調査済み資料の『修補 諏訪氏系図 続編』延川和彦著 飯田好太郎刊 1921【N288/23/2】で、矢島氏の系図を確認する。政継の祖父に当たる矢島正忠については詳細な記載がある。
2. 『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989【N283/13】で「矢島政継」を見るが、記載はなかった。「矢島正忠」の項の参考文献に『諏訪史』第3巻が挙げられていた。『長野県姓氏歴史人物大辞典』角川書店 1996(角川日本姓氏歴史人物大辞典 20)【N288/158】にも矢島氏についての記述はあったが、政継については確認できなかった。
3. 『諏訪史 3』p.139-144に「沙彌道念覚書」(政継の弟の沙彌道念(正友)が矢嶋正忠の戦死について書いたとされる)を引きつつ、矢島正忠が戦死した正平10年8月頃の情勢を論じているが、政継についての記述はない。
4. 中世の氏族についてのことから、郷土資料のN208,N209の棚をブラウジングする。『信濃史源考 第4巻』小山愛司編 歴史図書社 1976【N208/45a/4】p.231-232に正平10年(1355年)矢嶋正忠の戦死から文明12年(1480年)矢嶋継高戦死までの記述を見つけるが、政継についての記述はない。また、p.243-245に権祝の系図(権祝家系)があるが、p.244の政継のところには、「近長左衛門尉継(㆓)祝職(㆒)」((㆓)と(㆒)は返り点)の記述があるのみで、祝職にあった期間等がわかる記述はなかった。
5. また、諏訪地域に関することから、郷土資料のN243の棚をブラウジングする。『諏訪史料叢書 復刻 第3巻』p.235に『権祝家文書』が所収されていたが、「沙彌道念覚書」(前掲)と「南朝口宣案(写)」(矢嶋正忠を従五位下とする宣旨)が正平10年頃の内容で、他は文安以降のものだった。
6. 『諏訪史料叢書 復刻 第4巻』中に『藩譜私集』が所収されているが、矢島姓の3名(矢島濤江亮満假, 矢島次郎右エ門宗充, 矢島三郎左エ門満正)について記載のある第二之巻は欠となっており、政継との関係は不明。第五之巻の矢島潤助次長については、江戸時代宝永5年からの記述で政継との時代からは後になるため、目的の資料ではなかった。第二十一之巻の矢島丹蔵も同様で、文化より後になる。
7. 『諏訪史料叢書 復刻 第5巻』p.294に『安筑史料叢書 上巻』から転載した「矢嶋旧記連判状(写)」が所収されており、正平10年矢嶋正忠出兵の際の連判状と思われるが、「正忠以下連判」となっており、誰が連判したのかは不明。当館所蔵の『安筑史料叢書 上巻』でも同様。
8. Googleで「矢島氏」「系図」を検索すると国立歴史民俗博物館の学術情報リポジトリで公開している井原今朝男著「神社史料の諸問題」『国立歴史民俗博物館研究報告』148集(2008)
- 事前調査事項
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『修補 諏訪氏系図 続編』 26丁
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 中部地方 (215 8版)
- 参考資料
- キーワード
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- 諏訪大社
- 矢島氏
- 権祝
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000219543