レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年06月28日
- 登録日時
- 2014/03/20 10:08
- 更新日時
- 2014/03/20 14:04
- 管理番号
- 千県中千葉-2014-3
- 質問
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解決
(1)房総の「総」が分割されたとき、なぜ備前、備後などのように前・後ではなく上総、下総と上・下に分かれたのか。
(2)なぜ南が上総で北が下総なのか。
- 回答
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お尋ねの件について調査したところ、(1)については分割の年代が前・後より上・下の方が古いため、(2)については当時の交通ルートにより、都に近い方から上・下と名付けたとありました。
調査した資料の詳細は以下のとおりです。
『千葉県の歴史 通史編古代2』【資料1】p53「一般的には、房総のように上下に分かれる国の方が、前後に分かれる国(備前国と備後国など)よりも古い形態と考えられるから、現在のところ、『常陸国風土記』の総領の系譜を引く「国宰(くにのみこともち)」とよばれる人びとが派遣され、彼らによって、天智朝頃に上下に分割されたと考えるのが妥当であろう。分割後の名称は、大和の藤原京から東海道をくだってきて、相模国から浦賀水道を渡って房総に入ったとき、最初に上陸する都に近い地域を「上捄(※注)」とし、道順から都に遠い地域を「下捄」と名付けたのであろう。」とあります。
※「捄(ふさ)」の字については、同資料の前段 p51-53で房総は古く「捄」と呼ばれていた可能性を指摘しています。「捄」は果実の房、例えば房をなして実る山椒の実のようなものを意味し、麻の実もまた同様に房をなして実ること、『古語拾遺』の麻の生産地という意味での国の名称にも合致することを指摘しています。
『千葉大百科事典』【資料2】p401「下総」の項に、「上総、下総は古い東海道が三浦半島から東京湾を渡って海上より陸地に入ったことに関係する。つまり総の国は古代の大和国家の都に近い方から上総・下総とよんだことを意味する」とあります。この項の執筆は石橋一夫で出典は明記されていません。
『角川日本地名大辞典 12 千葉県』【資料3】p245「上総国」の項「『古語拾遺』によると、良き麻の生える総の国を上下に二分し、京に近い地方を上総国としたという」とあります。
『古代地名語源辞典』【資料4】p273「ふさ」の項に「吉田晶によれば、総の分割は吉備・越・筑紫・豊・火の各国とは違い、分割後の国名が毛野と同様「前、後」ではなく「上、下」によって区分され、しかも語幹の上に「上、下」を冠する形式をもっていることから、前述の各国より相当さかのぼる時期ではなかったかという。また、その時期は六世紀中葉と予想する」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『千葉県の歴史 通史編古代2』(千葉県史料研究財団編 千葉県 2001)(0200762446)
- 【資料2】『千葉大百科事典』(千葉日報社 1982)(9200345350)
- 【資料3】『角川日本地名大辞典 12 千葉県』(角川書店 1984)(9200306648)
- 【資料4】『古代地名語源辞典』(楠原佑介ほか編著 東京堂出版 1981)(9102897708)
- キーワード
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- 千葉県
- 上総
- 下総
- 地名
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000150954