■自館で使えるデータベース Japan Knowledge + キーワード:遊郭
国史大辞典および日本大百科全書に詳しい説明あり。
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1.吉原再見 廓の一日
2.遊郭の研究 吉原の一日
「戌の刻 張見世は午後六時ぐらいから十二時ぐらいまで」
「張見世の間はすががきと言われる唄なしの三味線を弾き続ける」とあり、
「吉原の引け(終了)は表向きは午後10時ごろであるが、実際はこの時間になる」(午後12時頃)との記載がある。
■自館OPAC DOORS キーワード:遊郭 吉原 ヒット26件 候補8件
福田利子著『吉原はこんな所でございました : 廓の女たちの昭和史』文元社,2004.2
384.9||F9618
「十二時が“中引け”としますと、“大引け”は二時」
今戸栄一編『目で見る日本風俗誌(7) 遊女の世界』日本放送出版協会 , 1985.8 384.9||Y3
「遊女たちは、張見世の合図の清掻を弾いており」
西山松之助編『日本史小百科9 遊女』 近藤出版社 , 1979.9 384.9||Y2
「清掻きとは」「清掻きのにぎやかな演奏」
蘇武緑郎著『日本風俗叢書 吉原風俗資料』日本図書センター , 1983.3 384.9||S
「すがゝきたかうひきならず」
小野武雄編著『江戸時代風俗図誌 第三巻 遊女と廓の図誌』展望社 , 1977.9 384.9||O5
「すがかき(清掻・歌なしで弾くこと)を高く弾き鳴らす」の現代語訳
【調査方針】
①吉原遊郭の規則(←利用者自身の質問)
②吉原遊郭の中での三味線の演奏のされ方(不文律、当時の吉原の習慣、常識的なもの、風俗)
③三味線の歴史から(新内の由来など)
①・② … 明治期の吉原の概要を調査、関連キーワードを拾う。
吉原に関しては、入門・概説書が多数と予想される。
② … ”吉原”としての関連資料の他、明治期の小説、随筆等の中の描写に該当場面は?
③ … 「新内」が三味線のジャンルのひとつであり、”「吉原」のような遊楽街で客に支持された庶民の芸”という、吉原とのつながりが強い曲であったため。
http://popto5.ec.t.kanazawa-u.ac.jp:8080/~myamada/nagauta.htm#§2
典拠により明らかになったのが「新内」であったことと、①・②の調査を進める中で、追加で出てきた戦略。
【①②調査】
江戸時代にできた遊郭の「張見世」「引け」などのしくみを踏まえた上で、明治30年より前の吉原ではどうだったか?調べる。
■大今図(請求記号380)書架をブラウジング。明治時代の遊郭をとりあげている文献は以下のとおり。
喜熨斗古登子述, 宮内好太朗編, 三谷一馬画『吉原夜話』青蛙房 , 1964.10 384.9||K5
「見世清掻を内芸者が弾く景気のいい有様」「芸者は三味線をかまえ」
中野栄三著『廓(くるわ)の生活』 雄山閣出版 , 1968 384.9||N 384.9||N||1a
中村芝鶴著『遊廓の世界 新吉原の想い出』評論社 , 1978.2 384.9||N2
中山太郎著『売笑三千年史』春陽堂 , 1927.12 384.9||N9595*
尾崎久弥著『吉原図会』日本図書センター , 1983.3 384.9||O3*
*主要文献といえる。巻末に主要文献解説あり。
大久保葩雪著『花街風俗志 日本風俗叢書』明治39年4月30日初版,日本図書センター , 1983.3 384.9||O2
「遊女は夜間の商売とは往古からの伝えであるが、貸し座敷は実際昼夜なしの営業で、引過から夜明けまで、朝から夜までの差別なしに上る客あれば帰る客あり、流連客あれば居残ありで、繁昌店程昼夜の区別は実際判らぬ」とあり、
営業の様子(時間)について詳細な記述あり。
「すががき」の弾かれた様子(時間)についても詳細な記述が続く。
「明治五年十月の娼妓解放の以後は、全く其音を止めて了ったが」とある。
上村行彰著『日本遊里史 日本文化史叢書』藤森書店 , 1982.7 384.9||U
「大阪府では解放令の時の公約に依って明治五年十月遊女並に席貸営業規則を制定発布」
「太政官布告の影響に依って」「又此の規則にて有夫の芸妓を許可することにした」「それで芸妓の営業時間が問題になっていたが」「時間並に衣服粧飾品等は全く無制限となった」とある。
大阪の有夫の芸妓の例ではあるが、芸妓(三味線など)の営業時間が無制限ということは、その後三味線を弾く時間にとくに制限はなかったと推測されるのではないか。
■日本法令索引
「太政官布告」を確認。
キーワード:吉原規定證文
石井良助著『女人差別と近世賤民』明石書店 , 1995.2 384.9||I555
□古典籍総合データベース
新吉原遊女町規定證文
同志社所蔵資料、およびデータベースを調査した範囲では、特に吉原について、明け方に貸部屋で三味線を弾くことを禁じる資料を確認することはできなかった。明治三十年代には特に三味線を禁じる規則はなかったと推測される。
【②、③の調査結果】
②Googleにて
□ 正岡子規の『寒山落木 三』
明治27年 吉原「三味線の静かに夏の夜は明けぬ」
→子規が写実派であったことから、レトリックではなく描写と考えられないか?
□『浅草昔話 鈴村義二氏』http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/oomon.html
「大引け過ぎの、静寂の中に流れてくる、金棒の音、あんまの笛の音、流しの糸の音を枕辺に聞いて、」
□今東光「吉原哀歓」http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/bungaku/yosiwara-aika.html
→吉原内に新内流しが多くいる描写
□Ciniiにて
関良一「吉原--近代文学 」國文學 : 解釈と教材の研究 9(2), 73-78, 1964-01
③CiNiiにて
前原 恵美『「吉原細見」から見た三味線音楽界の情勢』他、論文あり