レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/10/25
- 登録日時
- 2010/10/26 02:00
- 更新日時
- 2011/08/29 17:23
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中-郷土-26
- 質問
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解決
京都におけるビールの歴史が知りたい。
- 回答
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京都におけるビールの歴史は,明治3年京都舎密局(せいみきょく)でのビール醸造の研究に始まります。これは全国的にも早いもので,明治10年には清水寺の音羽滝の水を利用して,府営の麦酒醸造所が建てられました。舎密局内の理化学校での講義を受講した酒造業者も多く,京都産のビール商標もいくつか生まれたものの,後に大阪麦酒(後年のアサヒビール)に圧倒されてしまいました。
明治22~23年頃に関西地区としては初めて京都府葛野郡川岡村で,ビール原料用大麦ゴールデンメロン種の栽培が開始され,明治29年から大阪麦酒会社と直接販売契約を結び,以降ビール麦栽培は企業と軸を一にして発展しました。西京区大原野上羽町にそのビール麦栽培の偉業を伝える「興産紀功之碑」が建っています。
また,日本初のビアホールは明治28年に京都で行われた第4回内国博覧会に大阪麦酒が設置したものであると言われています。一般向けのビアホールの普及も早く,大正末年から昭和初年にかけて,関西で樽詰めの生ビールが最も多く売れたのは,京都河原町四条のレストラン「矢尾政(現・東華菜館)」であったという記録が残ります。
- 回答プロセス
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●舎密局(せいみきょく)について確認
【資料1】「舎密局」の項目あり。
明治3年,京都府が理化学および化学工業技術の研究普及を目的として設けた機関。作っていたものの中に「麦酒(ビール)」がある。
●京都の歴史から
【資料2】p4 「麦酒醸造所」“明治10年7月起業,麦酒を醸造する所とす。”
●当館所蔵資料をキーワード「ビール」で検索し,ビール麦についての資料を発見。
【資料3】明治22~23年頃に関西地区として初めて,京都府葛野郡川岡村でビール原料用大麦ゴールデンメロン種が栽培され,明治29年から大阪麦酒会社(後年のアサヒビール)と直接販売契約を締結し,以後ビール麦栽培は麦酒会社と軸を一にして発展した。昭和30年代の最盛期には2,608haの作付と,5,562トンの販売量にのぼり,今日の麦価で換算して10億円の販売に達した。現在も亀岡市において近代的な生産が続いている。
大正9年にビール麦発祥の地である川岡村に「興産紀功之碑」が建立された。
p225~226に京都で製造された麦酒の商標が挙げられている。結局京都における麦酒業は大阪麦酒に圧倒されてしまった。
・扇ビール…酒造業北条某が時の府勧業課長高木文平氏の命を受け,ドイツ式麦酒の醸造法を研究し,製造を行った。白色陶器製の壜を用いた。京都における麦酒業の起こりである。
・井筒麦酒(井口製)
・九重麦酒(九重酒造製)
・日の丸麦酒(日拡社製)
●興産紀功之碑の建っている西京区地域の文献から
【資料4】興産紀功之碑の全文あり。
【資料5】「ゴールデンメロン(ビール麦)の想い出」と題する住民の手記。麦畑の風景。
【資料6】「昔の樫原を偲ぶ」という手記に“精農家では(ビール麦を)百俵も出荷した家もありました”とある。
●京都府の農業から
【資料7】p266~267 ビール麦ゴールデンメロン種の試作開始について記述あり。
p848~849 久我村におけるビール麦栽培について,明治40年頃から菜種作の衰退と関連して始まったとある。参考文献として【資料8】が挙げられている。
【資料8】副題「京都府乙訓郡久我村の実証的研究」
久我村のビール麦栽培について述べている。
●京都府の経済から
【資料9】何箇所か京都のビール麦栽培についての記述あり。
p53 水利条件の改善が水田裏作の生産力を高くした例として久我村を挙げている。
p126 1960年の下鳥羽のある農家の兼業農家の作付大成図分析において“ビール麦,裸麦といった最近では見られない作目が入り込んでいる”とある。→1960年頃には衰退していたということか。
p142 久我のある農家の転職過程について,“かつて当農家は下久我地区の農業を代表するが如く,米+ビール麦ないし裏作として蔬菜作を経営し”とある。
●お酒の棚から
【資料10】p18 音羽山清水寺の麦酒醸造所について記述あり。
p43~45 「ビアホール発祥の地は京都」
・第4回内国博覧会に大阪麦酒が設置してビアホールが日本初である。
・矢尾政(現・東華菜館)の樽詰め生ビールの売り上げが群を抜いていた。
●京都の雑学本から
【資料11】明治10年の天皇行幸の際に「扇印麦酒」と名付けたビールが献上された。
●京都市の他の図書館から取寄せたビールの資料に京都に関する記述を発見。
【資料12】p128~129 「京都のビール醸造所」
舎密局内の理化学校での講義を府の勧業課に命じられて受講した酒造業者も多く,その結果京都産のビールがいくつか生まれたとして商標を紹介。
・扇ビール(末広社)
・九重ビール(京都中京御幸町,太田弦造,九重醸造場)
・井筒ビール(京都木屋町,井口醸造)
・カブトビール(兜麦酒,京都四条白川橋,安田酒造)
・盛(もり)ビール(京都市下京区,盛・鮫島醸造)
p162~ 日本初のビアホールとして,京都で第四回内国勧業博覧会が開かれた折,大阪麦酒がその会場に特設したものである。
p178~179 ・戦前,特に大正末年から昭和初年にかけて,関西で樽詰の生ビールがもっとも大量に売れたのは京都の河原町四条の賀茂川の橋のたもとにあったレストラン「矢尾政」である。出典は大日本麦酒の大森寅之進の出荷量ノート。
・日本では樽詰ビールの消費は少ないが,大阪の中之島や京都で早い時期にビアホールが開かれた歴史があったせいか関西では樽の生ビールも比較的よく飲まれた。
・戦前のよく客が集まったビアホールとして京都の河原町三条下ル「新みやこ」を紹介。
- 事前調査事項
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質問者より,1870年に京都の舎密局(せいみきょく)でビールの生産が始まったことは知っているので,もっと詳しい情報がほしいとのこと。
- NDC
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- 近畿地方 (216 8版)
- 食品工業 (588 8版)
- 農業 (610 8版)
- 参考資料
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- 【資料1】『京都大事典』 (佐和隆研ほか編 淡交社 1984)p54
- 【資料2】『京都府誌 下』(京都府編 名著出版 1974)p2,4
- 【資料3】『京都のビール麦100年のあゆみ』(京都府農業共同組合中央会 1991)p225~226
- 【資料4】『史料京都の歴史 15 西京区』(京都市編 平凡社 1994)p320,321
- 【資料5】『樫原学区十周年記念誌』(樫原学区十周年記念事業委員会 1982)p56~57
- 【資料6】『樫原学区十五周年記念誌』(樫原学区十五周年記念事業委員会 1985)p55
- 【資料7】『京都府農業発達史』(京都府農村研究所 1962)p266~267,p848~849
- 【資料8】『寄生地主制の生成と展開』(古島敏雄編著 岩波書店 1952)
- 【資料9】『京都市南部の経済と住民生活』(上田作之助編 同朋舎 1981)p53,126,142
- 【資料10】『京都ほろにがクラブ四十周年記念誌』(京都ほろにがクラブ 1983)p18,43~45
- 【資料11】『京都でいちばん京都がいちばん』(京都新聞出版センター 2010)p70
- 【資料12】『日本のビール』(稲垣真美著 中央公論社 1978)
- キーワード
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- ビール
- 麦酒
- 酒
- アルコール
- 舎密局
- 麦酒醸造所
- 内国勧業博覧会
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000072730