レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/03/06
- 登録日時
- 2007/11/10 02:11
- 更新日時
- 2007/11/10 02:11
- 管理番号
- 福島地域0098
- 質問
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解決
第二次世界大戦中、いわきで風船爆弾を発射していたそうだが、敗戦後の顛末が載っている資料が見たい。
- 回答
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『風船爆弾覚書』小豆畑裕繁/著 小豆畑裕繁 のp37-38に「敗戦」の項目があります。それによると、8月15日 陸軍軍事課が出した「特殊研究処理要綱」により、以下本文抜刷 「各基地に残っていた風船爆弾関係の書類、器具類一切、燃やせるものはすべて焼却し、爆弾 焼夷弾は勿来では勿来港から港外の海へ投棄し、或いは石炭発掘の廃坑に捨てた。大津でも燃えるものは焼き捨て、爆弾や焼夷弾は海に投棄し、風船爆弾に関するものは一切残らぬように処分されてしまった。米軍進駐後、米軍は早速大津、勿来に来て綿密な調査検分をおこなった。しかし、押収しうるものはなかったという」との記述がありました。 他にもいくつか記述をみつけましたので、併せてご覧ください。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- ふくしま戦争と人間 4 (・p444に以下の記述がありました。「もともと軍事機密の攻撃用兵器であるため、米軍の進駐前に処分してしまおうと、翌日から風船と爆弾を外して処分する作業が行われた。爆弾は常磐炭田の廃坑に投入して爆破したり、あるいは九面港や大津港から機帆船に積んで海上に持ち出し、人工爆破または深海へ投棄処分された。風船そのものは焼却処分にされたが、地元の人たちによると「勿来の関の裏山あたりから、風船を燃やす黒煙が何日間か立ちのぼっていた」という。当館請求記号、資料番号は、L210.7/F1/2-4、100008432)
- 須賀川市史 第5巻 (p133に「乾繭所と風前爆弾」の項目あり。当館請求記号、資料番号は、L214/S3/2-5、100011550)
- 植田町史 (・p158-159に、風船爆弾の記述あり。当館請求記号、資料番号は、L218/S8/1、100031657)
- 安達町史 1 (p913-914に「風船爆弾」の項目あり。当館請求記号、資料番号は、L212/A5/1、100138999)
- いわき地方史研究 第13号 (・p54-57に「風船爆弾といわき」 小牧忠雄/著 の小文がありました。p55に、「海軍ではそれ[昭和十九年八月]以前に相模海軍工廠が錦町に分室を設けて気球の大量生産に入っていたのである。これは大型潜水艦から放球攻撃する目的である。 中略 出来上がった風船は横須賀へ送られた。 中略 海軍では潜水艦に不足をきたし、本番球は一度も打揚げられず 以下略。」との記述。当館請求記号、資料番号は、L210.05/I2/3、100704329)
- 風船爆弾覚書 (当館請求記号、資料番号は、L210.7/A3/1、100926252)
- ふるさと塾 (p190-209に「伝え続けなければならないこと 風船爆弾の教訓」の一文、巻末p240に「主要参考文献一覧」あり。当館請求記号、資料番号は、L379.3/K4/1、101082501)
- 風船爆弾 (・p190-194に敗戦後の廃棄処分について記述がありました。爆弾処分の概要は「大津基地の残存爆弾、焼夷弾は、軍用トラックに積まれ、平潟港の八幡神社の高台下へ運ばれた。そこから焼玉エンジンの機帆船が曳航する達磨船に積みかえられ、沖合の海底へ沈められた。勿来基地の残存爆弾、焼夷弾は常磐炭田の片隅に運ばれ石炭が掘られていない抗口から投入、爆破された。平潟沖と、常磐炭田へ沈没及び人口爆裂によって消滅させた15キロ爆弾は約700個、12キロ焼夷弾と5キロ焼夷弾あわせて約2500個以上となった。」とあります。当館請求記号、資料番号は、916/S36、300349933)
- 風船爆弾 (巻末に「主要参考文献」p299-304あり。当館請求記号、資料番号は、210.75/Y1、304057508)
- キーワード
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- フウセン バクダン
- 風船爆弾
- イワキ
- いわき
- ショリ
- 処理
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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風船爆弾の材料となったこんにゃくや和紙は福島県内でも製造していたようです。参考資料をご覧ください。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 団体
- 登録番号
- 1000039179