レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/2/20
- 登録日時
- 2007/03/09 02:11
- 更新日時
- 2020/09/02 12:53
- 管理番号
- 愛知県図-00069
- 質問
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解決
名古屋の地名「那古野」の由来について知りたい。
- 回答
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1 地名「那古野」について
下記資料に次のような記述があります。
【資料1】『日本歴史地名体系 23 愛知県の地名』79頁「名古屋市」の項
「古くは那古野と書き、また名護屋・浪越などとも記し、蓬左の別名もある。旧広橋家本「江家次第」裏書(東洋文庫蔵)にある建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図に平安時代末期の荘園名として現れるのが初見で、南北朝時代の写本「弘法大使御入定勘決記」(真福寺蔵)の奥書にも「尾張国那古野荘安養寺」とみえる。近世の初め、徳川家康によって名古屋城下が開かれた頃から名古屋と名護屋が併用されたが、しだいに前者に定まり、明治22年(1889)現市名となった。」
【資料2】『角川日本地名大辞典 23 愛知県』966頁「なごや 名古屋」の項の中の「那古野荘」の項
「鎌倉期~戦国期に見える荘園名。尾張国愛知郡のうち。那古屋・名護屋・名古屋とも書く。」(以下【資料1】と同じ史料を引いて解説)
【資料3】『新修名古屋市史 第2巻』47頁
「中世に「那古野(なごや)」とよばれた地域は、おそらく平安末期に成立した那古野荘の系譜をひくのであろう。」
以上によれば、「那古野」は「名古屋」の古い表記で「なごや」と読み、平安時代末から南北朝期に荘園名として現れるのが史料上の初見です。
なお、【資料4】『愛知百科事典』591頁には「那古野 なごの」の項があり、「「那古野」は古書にも出ており、「名古屋」という名辞の起源の一説となっており、尾張国愛知郡那古野荘那古野といわれていたところである。」とし、他に「那古野城 なごのじょう」、「那古野荘 なごののしょう」の項も立てられていますが、近世以前の「那古野」を「なごの」と読むことについては史料的根拠が示されておらず疑問があります。
2 「なごや」の語義について
【資料1】の同じ頁に、「その語源には、気候・風土がなごやかな地、ナゴ(霧)の多い原野、山や丘陵などのふもとの集落、城砦をめぐる兵舎の意、そのほか浪が高くしばしば海岸を越えるからなどの諸説がある。ナゴヤという地名は、根小屋(ねごや)、名越(なごえ)など類似のものを含めれば、肥前・筑前・豊後・駿河・伊豆・相模・下総などの各地にみられ、市域内にも根古野(緑区)があり、それらはいずれも海辺の集落という共通点をもつので、魚子屋(なごや)(魚子は漁夫の意)すなわち漁村とする説もある(塩尻、尾張国地名考)。」とあります。
また、【資料5】『名古屋市史 地理編』1~2頁にも、「名古屋の名義及び起源」と題してより詳しい記述があります。
3 明治以降の町名「那古野(なごの)」について
現在名古屋市中村区および西区にある「那古野」(なごの)という町名は、【資料2】の同じ頁の「なごの 那古野」や、【資料5】263頁によれば、明治22年に成立した愛知郡那古野村に始まり、明治31年に名古屋市の一部になり、同35年那古野町、昭和52年その一部が那古野となったものです。明治22年成立の那古野村は「なごや」と読んだことが、町村区域名称を定めた愛知県令第147号の別表(明治22年9月24日、【資料6】『愛知県公報』第149号附録所収、【資料7】52頁にも関係部分のみ収録)により確認できますので、「那古野」を「なごの」と読むのは、明治35年かそれ以降に始まると推測されますが、いつから始まるのかを示す史料は発見できませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 中部地方 (215 9版)
- 参考資料
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- 資料1『日本歴史地名体系 23 愛知県の地名』平凡社,1981 (1101340567)
- 資料2『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店,1989 (1104968312)
- 資料3『新修名古屋市史 第2巻』名古屋市,1998 (1107572433)
- 資料4『愛知百科事典』中日新聞社,1977 (1101469480)
- 資料5 『名古屋市史 第6巻 地理編』愛知県郷土資料刊行会,1980(大正5年刊の復刻) (1103178956)
- 資料6『愛知県公報』第149号,1889 (ZA318/ア)
- 資料7『中村区地名のおこり』名古屋市中村区役所,1967 (1101534408)
- キーワード
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- 名古屋
- 那古野
- 地名
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000033827