○追分城について
・『大府市誌』 大府市誌編さん刊行委員会/編 愛知県大府市/発行 →p166に追分城あり。〈昭和7年、大浜街道建設のさいに、土塁跡などが破壊された。現在は跡がない。稲垣淡路守が永禄2年(1559)に築城したというが、『尾張古城録』には「何人の城か知りがたし」〉とある。
また、「天保12年(1841)古絵図で推定すると、城の規模は面積約六反(595.2平方㍍)、堀幅三間(5.4㍍)である。」とある。
※『尾張古城録』 当館所蔵なし 県内なし 国会図書館のみ、デジタルコレクションなし
・『大府市 近世村絵図集』大府市誌編さん刊行委員会/編集 大府市役所/発行
この中の「5 追分村絵図」に城が載っているか確認。 →絵図の中央辺りに〈浄通院 古城跡〉の字あり。
地図が天保12年(1841)時のものであり、この頃は既に古城跡となっていたことがわかる。
・『城 第203号』 東海古城研究会/著・発行 →p17~「知多半島・大府市の城館上」の論文の中にp20追分城についての記載あり。
〈『覚書』『徇行記』は「城主不知」〉とある。
※『名古屋叢書 続編第8巻 尾張徇行記』 名古屋市教育委員会/編 愛知県郷土資料刊行会/出版 →追分村の項のp169に〈覚書ニ古城跡一ヶ所、城主不知、今ハ畠とトナル、府志ニナシ〉とあり。
また、この論文の引用に大府町史の浄通院に関するものがあったため、大府町史を確認。
・『大府町史』 大府町史編纂委員会/編 大府町/発行 →p718浄通院を確認。
<浄通院は永禄2年に開山したが、開基についての一説に〈当村(緒川村)北方字元屋敷の城主稲垣淡路守の発願創立といわれる。〉 との記載あり。
・『日本の城辞典』 日本城址研究会/編著 新星出版社/発行 →p336に追分城の年代〈永禄2年~不明〉、城主〈稲垣淡路守〉とある。
〇稲垣淡路守について
・『寛政重修諸家譜 第6』 続群書類従完成会/発行 →稲垣淡路守について調査。稲垣何某という人物で淡路守という記載のある者は、追分城築城時辺りにいた人物では確認できず。
・『 角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 』 愛知県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会/編著 角川書店/発行
→p624~「稲垣」姓の箇所を見るが記載なし。関連のありそうな人物の記載も見当たらない。
前述資料 『城 第203号』東海古城研究会/著・行 のp20~21の[追分城]の項より
・『大府の祭り』 大府青年会議所/編・発行
→p20では、〈追分藤井神社の稲垣淡路守の奥方に関する伝承を紹介しているものの、現状では伝説だけの人物になろう〉、
〈やはり築城時期、城主、廃城期などのすべてが不詳の城址である〉との記載もある。