レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2024年02月06日
- 登録日時
- 2024/04/21 17:50
- 更新日時
- 2024/04/25 11:57
- 管理番号
- 000011109
- 質問
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解決
下関駅の建設時名称について、建設時には「赤間関停車場」と呼んでいる資料(『写真集 明治・大正・昭和 下関』p96など)があるが、開業時は「馬関駅」であったという。(同書p97など) 「赤間関停車場」が「馬関駅」となった経緯や理由等が記載された資料があれば紹介してほしい。
- 回答
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「赤間関停車場」と「馬関駅」が同じものを指すこと(もともと赤間関停車場と呼ばれていたものが、開業時に「馬関駅」に変わったこと)について記載のある資料は見つかった。一方、「馬関駅」の名称がつけられた理由について記載した資料は見当たらなかった。
“国立国会図書館デジタルコレクション”に収録されている『鉄道技術発達史』第2篇 第2 施設p995(204コマ目)に、「表56 下関駅の沿革」があり、これによると、明治31年(1898年)12月1日の項に「山陽鉄道赤間関停車場(仮称)着工」とある。また、明治34年(1901年)5月24日の項に「赤間関停車場竣工、馬関駅と命名(所在地下関市大字西細江町125番地)」とある。この資料では、「赤間関停車場」はあくまで竣工時までの「仮称」であり、竣工後に「馬関駅」と命名されたとしている。この資料では、「赤間関停車場」と「馬関駅」は同じ場所を指していると思われる。
なお、同書p1319(730コマ目)にも同様の記述がある。
『鉄道技術発達史』第2篇 第2,日本国有鉄道,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2423736 (参照 2024-04-23) インターネット公開資料
https://dl.ndl.go.jp/pid/2423736/1/204 (p995 204コマ目)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2423736/1/730 (p1319 730コマ目)
同様に“国立国会図書館デジタルコレクション”に収録されている『鉄道碑めぐり』p165(99コマ目)に「山陽本線が明治三十四年五月、下関(建設中は赤間関停車場で、そのころは馬関といった)に延びた時、」とあり、ここでも「建設中」は「赤間関停車場」であったところが、竣工後「馬関」駅になった、と読める。
日本国有鉄道総裁室文書課 編『鉄道碑めぐり : 鉄道九十年記念出版』,日本国有鉄道,1962.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3452247/1/99 (参照 2024-04-23)
また、下記資料1『下関駅物語』p66に、「毎日新聞」下関版の昭和31年(1956年)5月24-26日付けに掲載された「下関駅生れて55周年 記念座談会」という記事の引用があり、「そうして(引用者注:明治)三一年一二月に山陽鉄道が赤間関停車場(仮称)を着工三二年七月にいよいよ細江町、豊前田町、竹崎町海岸の埋立工事がはじまり、三十四年三月に総面積三百二十六坪の埋立が完成、同年五月二十四日に馬関駅が完工して二十七日から営業をはじめている。」とある。
資料2『山陽鉄道物語』p167にも「赤間関の駅は明治34年5月24日竣工し、同日、駅名は馬関とされ」とある。
山陽鉄道の駅(停車場)として開業(運輸開始)したときの正式名称が、「馬関」(駅)であったことについては、運輸開始について、資料3「官報」の明治34年(1901年)5月31日付け5371号に掲載された際、「厚狭、馬関間運輸開始」と記載されていることや、駅間の距離(哩(マイル)数)について「幡生、馬関間 二・四四」と記載されていることからもわかる。この資料は、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている。
大蔵省印刷局 [編]『官報』1901年05月31日,日本マイクロ写真,明治34年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2948669/1/7 (参照 2024-04-23)
なお、馬関駅(赤間関停車場)が計画または建設中の段階では、「馬関停車場」という呼び方もなされていたことは、以下の資料からわかる。
『鉄道』(30),鉄道雑誌社,1896-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1514888/1/24 (参照 2024-04-23) 図書館・個人送信限定資料
p41(24コマ目)下段に「馬関停車場の位地」の項がある。
『工談雑誌』(108),工談会,1898-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1505250/1/25 (参照 2024-04-23) 図書館・個人送信限定資料
p183(25コマ目)に「山陽鉄道の三田尻馬関線」の記事があり、「馬関停車場」とある。
資料4『『新聞集成明治編年史 第11巻』
明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史』第11卷,財政経済学会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239523/1/101 (参照 2024-04-23) 図書館・個人送信限定資料
p156に「国民新聞」明治33年(1900年)11月30日付けの記事「山陽鉄道厚狭へ開通」が収録されており、記事中に「厚狭馬関間」「馬関停車場」の語がみえる。
また、完成時・完成後の馬関駅を、「赤間関駅」と表記している資料もある。
資料5『下関の地名』(1976年刊)
p53-55に、「明治三十四年(一九〇一)五月の山陽鉄道の開通と同時に、細江町には赤間関停車場が開設されます。(引用者注:中略)赤間関駅の完成によって西細江地区は下関西部の中心地となって栄え、」とある。この資料は“国立国会図書館デジタルコレクション”にも収録(30コマ目)されている。
『下関の地名』,下関市教育委員会,1976.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9574048/1/30 (参照 2024-04-23) 図書館・個人送信限定資料
資料6『山口県の歴史』(1971年刊)
年表p27の1901年の項に、「山陽鉄道の厚狭-赤間関駅間開通」とある。この資料は“国立国会図書館デジタルコレクション”にも収録(170コマ目)されている。
三坂圭治 著『山口県の歴史』,山川出版社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9572564/1/170 (参照 2024-04-23) 図書館・個人送信限定資料
このほか、以下の資料について、馬関駅開設前後の記載を確認したが、「馬関駅」と名付けられた理由について明示した部分は見当たらなかった。
『駅長さんの書いた駅名ものがたり』(駅名ものがたり企画委員会 編著,東洋図書出版,1977)p141-142
『鉄道いまむかし』(山口県立山口博物館 編,山口県立山口博物館,1982.7)p27-28
『下関市史 市制施行-終戦』(下関市市史編修委員会 編,下関市役所,1983.3)p54,56,418-424
『下関駅百年』(斎藤 哲雄 著,新人物往来社,2001.09)p23-24
『下関の鉄道物語』(下関市立歴史博物館 編集,下関市立歴史博物館,2019.7)p23-32
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 参考資料
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1.斉藤哲雄 著. 下関駅物語. 近代文芸社, 1995.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002408139 , ISBN 4-7733-3980-2 (p66) -
2.長船友則 著. 山陽鉄道物語 : 先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡. JTBパブリッシング, 2008. (キャンブックス = Can books ; 鉄道 85)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009230117 , ISBN 978-4-533-07028-0 (p167) - 3.「運輸開始」. 1901. 官報 明治34年5月31日(5371号) (p13)
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4.中山 泰昌 編著. 新聞集成明治編年史 : 北清事変期 第11巻. 財政経済学会, 1936.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I35119610022998 (p156) -
5.下関の地名. 下関市教育委員会, 1976.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001368830 (p53-55) -
6.三坂圭治 著. 山口県の歴史. 山川出版社, 1971. (県史シリーズ ; 35)
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001214095 (年表p27)
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1.斉藤哲雄 著. 下関駅物語. 近代文芸社, 1995.
- キーワード
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- 鉄道--山口県--下関市--歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000349299