●明治時代の新潟県の人口について記載がある資料
・新潟県ホームページ「よくある質問(FAQ) 人口・世帯」
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/tokei/1194797769930.html *「Q5明治以降の新潟県と全国の人口の推移を知りたい。」に「ちなみに、明治21年と明治26年は新潟県の人口が全国1位でした。(明治21年 1,662,900人、明治26年 1,706,400人)」と記載あり。
・新潟県ホームページ「県の歴史」
https://www.pref.niigata.lg.jp/site/kodomo/1356778597824.html *「その後1873年(明治6年)に柏崎県が、1876年(明治9年)に相川県が新潟県に入り、1886年(明治19年)に東蒲原郡(かんばらぐん)が加(くわ)わって現在の新潟県の姿(すがた)になりました。このときの人口(じんこう)は約163万人で、全国1位でした。」と記載あり。
・新潟県立文書館「新潟県全般に関する相談 Q3」
https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=933 *「Q3明治初期の新潟県の人口はどれくらいか?」に「新潟県の現住人口は明治25年(1892)まで全国一でした(2012年の県勢要覧において新潟県の現住人口は全国14位です)。しかし、明治26年に神奈川県の三多摩地方が東京府に編入されたことから、東京府の人口が一挙に増加し全国1位になります。その後、日清戦争後、大阪府にも抜かれて第3位となります。」と記載あり。
・朝日新聞記事データベース 聞蔵II「人口減少 データで見る新潟:上)明治期、日本一だったが… /新潟県」
*「新潟県は日本で最も人口が多い県だった。1888(明治21)年の人口約166万人は、東京(4位)を約30万人も上回っていた。1893年の調査でも1位だったが、じりじりと順位を下げ、現在は47都道府県中15位だ。」と記載あり。
・『新潟県の歴史』 田中圭一/著 山川出版社 2009.12 214.1 ISBN:978-4-634-32151-9
*P286に「人口については、明治二十五年までは新潟県の現住人口は全国第一位であったが、翌年には東京府に抜かれ、日清戦争後に大阪府に抜かれて第三位となり、さらに日露戦争後には兵庫・愛知・福岡の各県に抜かれ、大正三年の現住人口は全国第六位となった。この原因は出稼ぎ・移民などの人口流出にあり、とくに京浜・阪神・東海方面へ吸収されていたのである。」と記載あり。
・『新潟県の百年』 大島美津子/[ほか]著 山川出版社 1990.8 214.106 ISBN:4-634-27150-8
*P134に「明治二十三年(一八九〇)七月に第一回選挙がおこなわれたさい、新潟県選出の衆議院議員定数は一三で、東京府の一二を上まわり全国最多だった。当時の一六八万人余の県人口が、全国一だったからである。二十六年には現住人口は東京府につぎ、日清戦争後に大阪にぬかれて第三位となった。二十九・三十年の大水害の年には、三〇〇〇人ほどの減少さえ記録した。故郷をはなれて、新天地へうつりすむ人びとがふえたのである。」と記載あり。
・『裏日本』 古厩忠夫/著 岩波書店 1997.9 210.6 ISBN:4-00-430522-5
*P44に「府県区分が確定した明治一六年以降は新潟県が全国一の人口大県だったが、明治二六年に東京に抜かれる。」と記載あり。
・『「裏日本」はいかにつくられたか』 阿部恒久/著 日本経済評論社 1997.10 210.6 ISBN:4-8188-0949-7
*P87~89に「表2-1の出典によると、一八八五年まで全国第一位であったが、八六年には東京府に抜かれ第二位となった(八六年の東京府の現住人口は一六六万七七五五人、新潟県のそれは一六三万二二五七人)。もっともこれは神奈川県の三多摩郡を東京府に含めた数値での比較であるから、当時の府県域によれば、三多摩郡の東京編入が行なわれた九三年まで、新潟県の現住人口は第一位であった。第五章でみるように、新潟県の「裏日本化」は日清戦争後いっそう進展し、一九〇一年には兵庫県に抜かれて第三位になる。」と記載あり。
●新潟県の人口が日本一だった理由について記載がある資料
・朝日新聞記事データベース 聞蔵II「(あっと!@デ~タ)昔、人口日本一は新潟だった」
*「当時の人口調査は、転出届を出さずに農村から都市に流出した人をそのまま農村の人口と数えるなど、農村が多めになる傾向があったとはいえ、明治21年、26年の調査では約170万人を数え、兵庫、愛知、東京などを抑えてトップだった。鬼頭宏・上智大教授によると、江戸時代、稲作に適した気候に恵まれ、大阪と北海道を結ぶ北前船(きたまえぶね)航路のあった日本海側の方が太平洋側より豊かな傾向があった。「米どころ新潟はそれだけの人を養う力があった。今ごろからの冬場には出稼ぎ労働力の供給基地として位置づけられていた」しかしその後、工業化で人口が急増した太平洋側の都市に次々に抜かれていった。」と記載あり。
・『地勢と統計から解き明かす!あなたの知らない日本史』 辰巳出版 2014.12 210.04 ISBN:978-4-7778-1382-7
*P96「38 明治のはじめに日本でいちばん人口が多かったのは新潟県だった!」に「ではなぜ新潟に人が多かったのだろう。ひとつは「米どころ」と言われているように、農業生産力に恵まれていたことが挙げられる。多くの人を食べさせていけるだけの豊かな土地があったのだ。そしてもうひとつの要因として、日本海側が当時の流通の要衝であったことも忘れるべきではないだろう。新潟もまた港湾都市として栄えていた。」と記載あり。
・『あなたの知らない新潟県の歴史』 山本博文/監修 洋泉社 2013.8 214.1 ISBN:978-4-8003-0203-8
*P160「Q61 新潟県が全国一の人口だったことがある!?」に「もともと日本海側地方は江戸時代から北前船の航路として栄え、気候的にも稲作に適していたことから、多くの人口を支える素地があったのである。江戸時代から続く伝統産業である織物や製糸業、金物業も明治に入って生産が拡大され、近代工業の保護養成も進められた。加えて石油開発ブームが起こり、石油産業の拡大と同時に機械・化学などの関連工業も発展。明治十九年には信越線直江津-関山間が開通し、同二十六年には直江津-高崎間が開通するなど交通網も発達を遂げ、県内に多くの人々が流入するきっかけとなった。」と記載あり。