次のいくつかの資料に情報があります。
1.『伊賀市史 第1巻 (通史編 古代 中世)』伊賀市2011
p817-824「神君伊賀越え」
p819「関係史料によって所要日数やルートがさまざまであり、とくにルートの詳細に関しては、いまだに定まっていない部分もある」とし、以下に関係文書とその内容を紹介しながら三つの推定ルートを示しています。
①『石川忠総留書』伊賀国境の桜峠を越えて丸柱→石川→河合→柘植(以上、伊賀市)を越え、加太越えで伊勢国境を越える
②『徳川実紀』小川館から多羅尾方面に向かい、御斎峠を越えて丸柱に至る
③「戸田本三河記」小川館から「甲賀越」で「勢州関」に出る
この中で①が最も可能性が高いとしています。
文章での説明のほか、p822「図138家康の伊賀越ルート図」、p823「表34 石川忠総留書」に見える家康の逃走ルート」、表35「「伊賀越え」推定ルート」も掲載されています。
2.『上野市史』上野市1961
p315「(五)徳川家康と伊賀者の雇用」
三百余の忍者が伊賀国境のお斎峠(音聞峠とも書く)に多羅尾から家康一行を迎え、加太免の難所を越え、伊勢の白子に至り、用意の船に一行を乗せたとしています。
3.『家康と伊賀越えの危難』川崎 記孝/著 日本図書刊行会,近代文芸社(発売)2002
※事前調査にあった「徳川家康・伊賀越えの危難」とほぼ同内容かと思われます。
p26-74「二 家康の経路」
この章全体で伊賀越えのルートについて検証しています。次のような内容がみられます。
p34「伊賀越えの経路(堺~岡崎)」p36「伊賀越えの経路(堺~丸柱)」
地図上に経路を示しています。
p50「宇治田原より山田村を経て信楽の小川村で一泊し、六月三日には伊賀路へと歩を進めていく。伊賀路は丸柱から石川・河合・柘植を経て、鹿伏兎・関・亀山・白子へと出たものである」
p53「「角屋由緒」・「武辺雑記」を見ても多羅尾より伊賀街道を通り、鹿伏兎・関・亀山・神戸、そして白子若松浦より乗船(略)一方、「石川忠総留書」によれば、関より四日市を経て那古(長太)に至り、那古から乗船したともいう」
p55「朝宮から丸柱に至るまでの経路について、二通りのケースが考えられるがはっきりしない」とし、小川から神山を経て丸柱に至るコース、小川から多羅尾・御斎峠・比曽河内・音羽を経るコースの二つを提示しています。
4.『亀山地方郷土史 第1巻』山田木水/著 三重県郷土資料刊行会1970
p296「二、家康の行動」
「伊賀、伊勢の間道をぬけて無事浜松に帰った。この間道というのは関古廐から金王道を東にとって白子に至るもので(後略)」
5.『鈴鹿市史 第2巻』鈴鹿市役所1983
p12-16「2.家康の脱出」
経路については「北河内を南山城へ出、近江信楽付近から伊賀丸柱を経、加太越えで、伊勢路は関から白子に出て」という経路が通説となっていると記載するのみです。
また、渡海の場所については諸家が自分の先祖が家康を助けたとして由緒を飾ろうとしたため諸説があるとした上で、次の3つの説とその根拠となる史料の内容を紹介しています。
①白子渡海 :「東照宮御実紀」、「寛政重修諸家譜」、「白子郷土史(小川家由緒書)」
②長太浦渡海説:神戸の高野家「家譜」
③四日市渡海説:「石川忠総留書」、「四日市市史(昭和5年)(徳川義親公「御先祖記」)」
この中では①の白子から角屋の船に乗ったとする説が有力なようであるとしています。
当館資料以外では、インターネット上のJ-STAGEで全文公開されている論文に次のようなものがあります。
『「神君伊賀越え」再考』藤田達生 愛知県史研究9巻 2005 p1-15
この中では、家康はほとんど伊賀を通っていないのではないかという疑問を提示し、主に「石川忠総留書」の該当部分の全文を挙げ、ルート図や表を用いて詳細に検証しています。他の2つのルートについても取り上げています。