以下の所蔵資料に菅原道真に関する記載あり。
『綾南町誌』 綾南町誌編纂委員会/編 綾南町 1998.3
P.125~142 「讃岐国司菅原道真」の項あり。讃岐の国司と民衆の様子が記載されている。
P.712,713 「五社八幡神社」についての記載あり。道真が滝宮で夜を過ごした時、林の中に光気を見た。そこに熊野権現である神童が現れ、この地に鎮座して里の民を守護すると言った。その地に道真が祠を建てて祀ったのが神社の由緒である、としている。
P.713,714 瀧宮天満宮縁起についての記載あり。菅原道真が讃岐国司として在任中、龍燈院綾川寺住僧空澄と交流があり、道真太宰府配流の際に別れを交わし御装束と自画像を賜った。その後道真薨去の悲報を知った人々は悲しみ、空澄の主唱により道真の国司時代の官舎跡に一祠を建立し御装束と自画像を祀ったのが瀧宮天満宮の起源であるとしている。
P.718 「孔聖神社」についての記載あり。神社の由緒は道真が讃岐国司在任中に孔聖の像を祀るために建てた聖廟の地に、道真薨去後一祠を創建し孔聖の尊像を祀ったこととしている。
P.721 「松谷神社」の記載あり。道真が北辰の祠を横山南谷に建てたのが神社の起源であるとしている。
P.737 道真が喜来という地に建てた聖廟に安置した綾川町指定文化財「木造孔子像」についての記載あり。大きさは25㎝、作者は不詳。
P.738 滝宮念仏踊由来の記載あり。
『羽床村誌』 秦一郎/編 羽床青年会 1919.12
P.25 「松谷神社」の記載あり。
P.29 「堤山天神神社」の記載あり。祭神は菅原道真であり「堤間竹内氏高松藩士竹内平七郎久林、新邸を建築せんとして地下を掘り、天神の像を発見して、茲(ここ)に祭る」とある。
P.81 内間の里の「松谷神社」の記載あり。道真讃岐国司在任中に北斗七星を祀った古跡とある。
『讃岐人物風景1』 四国新聞社/編 大和学芸図書株式会社 1980.7
P.38~55 菅原道真についての記載。
P.42~49 道真讃岐国司時代の記載あり。
P.50~52 大宰府へ左遷の途中で道真が讃岐に立ち寄った時の記載あり。
『讃岐国府跡を探る』 香川埋蔵文化財センター 編/発行 20210.2
讃岐国府の位置や構造を道真が残している史料から推定しようとする研究が江戸時代より行われており、その諸説の記載がある。また、滝宮に居館(別館)があったとの説についても掲載されている。
P.34~37、P.48~70 菅原道真の漢詩集『菅家文草』、江戸時代の歴史書や地誌(『玉藻集』『讃陽簪筆録(讃岐府志)』『南海治乱記』『翁嫗夜話』)における居館滝宮説についての記載あり。
『讃岐国府の時代』 香川県埋蔵文化財センター編/発行 2011.3
P.130~145 『菅家文草』収録の漢詩から讃岐国府の様子を推測し、記載している。
P.130~ 第9章が『菅家文草』の詩より国府の施設を推定した記載となっている。
『口訳全讃史』 中山城山/原著 桑田明/訳 綾南町城山会 1991 文政11年(1828)に記された『全讃史』を口語訳したもの。
P.115 菅原道真人物伝の記述
P.216~220 瀧宮牛頭天皇祠(現滝宮神社)、久正大権現祠、有岡天神祠(現松恵神社)の道真に関連した伝承の記載あり。
P.467 菅原道真左遷の折りに船が泊まった「鎮西が崎(牛鼻ノ洲とも)」についての記載あり。
P.479 有岡の道真御殿跡についての記載。
『角川日本地名大辞典37』 角川日本地名大辞典編纂委員会/編 角川学芸出版 2009.8
P.496滝宮の項に記載あり。
『飯山町誌』 飯山町誌編さん委員会/編 1988.8
P.163 讃岐国司の紹介として菅原道真についての記載あり。
P.773~776 坂本念仏踊の由来の記載あり。滝宮念仏踊の由来と同じものである。
『府中村史』 元村長 栗林三郎/編 府中村史頒布会 1963.9 (当館所蔵なし。香川県立図書館資料)
P.157 「城山の雨乞火焚」の記載あり。道真の徳と降雨祈願の際のことを偲んで行われている行事であるとのこと。
P.433~453 「城山神社と菅原道真」についての記載あり。讃岐国司在任中に城山にて道真が降雨祈願の祭事を行ったことについての記述。
P.451 「滝宮国庁説」についての記載あり。国庁が一時滝宮にあったという説があるが謬見と思われ、道真が着任して間もなく滝宮の風光がよいので館を建てた事は『翁嫗夜話(おきなおうなやわ)』や『讃岐史要』に見る事である、との記載あり。
P.452 滝宮天満宮縁起についての記載あり。
P.463 城山の史跡についての項に道真の降雨祈願の場所とされる「祈り岩」の記載あり。
P.489~491 「村社 天満宮」の記載あり。祭神は菅原道真。
P.567~570 「讃岐国庁址碑銘」の銘文内に道真についても記されている。
『日本古典文学大系72 菅家分草 菅家後集』 川口久雄/校注 岩波書店 1966.10
道真の讃岐国司在任中に読んだ漢詩が収録されている。
P.30~32 「讃州時代」の道真についての記載あり。
P.92 「讃岐国府附近図」掲載あり。
P.534 城山神祭文の掲載あり。
P.183~368 讃岐国司在任中に詠んだ漢詩を収めた『菅家文草』巻第三、巻第四が収録されている。
『人物叢書 新装版 菅原道真』 坂本太郎/著 吉川弘文館 2013.5
P.65~78 讃岐守の4年間についての記載あり。
『讃岐郷土読本』 讃岐郷土研究会/編 丸山学芸図書 1934.10
P.175,176 木村黙老/著「瀧宮の念佛踊」収録。念仏踊の由来について記述あり。
P.441~446 曾川壽吉/著「菅公と讃岐」収録。
P.447 菅原道真「城山の神を祭る文」の記載あり。
P.448~458 「讃岐国府廳跡」についての記載あり。
『滝宮ばやし読本』 滝宮公民館運営協議会/編 綾川町立滝宮公民館/発行 2014.3 P.36,37
『古今讃岐名勝図絵』 梶原藍水/編 歴史図書社 1976.11
P.56 「長尾町」の「寳蔵院」についての記載あり。寺の僧明印法師は道真が讃岐国司在任中に親しくしており、この寺に度々訪れ御寄付の品もあったとのことである。道真太宰府左遷の折に、讃岐の海を通った時、明印は小舟に乗って房崎の浦にて出迎えて一首の詩を贈ったとの記載がある。
P.98 「小田村」の「天満神社」についての記載あり。祭神は菅原道真公。国司として讃岐に来た時に、この浦に上陸し風景を楽しんだというゆかりがあり、里人が道真薨去後に祠を建てて祀り「綱敷天神」と称したとある。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)でも同所の大川郡小田村小田の「天満神社」が「綱敷天神」と呼ばれているとしている。その由来は道真が讃岐国司となり船がこの浦に船が停泊した時に、小田景山に登り漁夫が網を積んでいた所に寄りかかって景色を見たことによるとの記載がある。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)では「綱敷天神」は別の所在地の西山崎町になっている。社名の由来は道真が太宰府左遷の折に讃岐に立ち寄り「憂しが鼻」に停泊した時に、秦久利らが船綱を巻き道真の敷物としたからであるというものと、道真を慕う秦久利の娘婿が太宰府に密に道真を訪ねた時に、浜辺に船綱を敷いて歓談したとのことによるという2説記載されている。
P.121,122 「牟禮村」の「松居神社」(現松井神社)についての記載あり。讃岐在任中に道真が訪れ民の苦しみを問われたというゆかりがあり、道真薨去後に祠を建てて祀ったとの記載がある。また道真が訪れた時に、松の木の下に清泉がありこれを供したので松井という地名となり、道真薨去後にその徳を偲び里人がこの清泉の上に社を建てて祀ったともある。『牟礼町史』(牟礼町史編集委員会/編 牟礼町1993.3)P.739「松井神社」の項には神社の縁起として道真が讃岐国司として来た時に天候が悪くなったためこの浦に3日間停泊し来遊したというゆかりがあり、里人により祠が建てられたとする説も記載されている。P.787「松井泉」の項には松井神社のふもとの住宅裏にあるとされ、道真が命じてこの井戸を掘らせた、との説もあると記載している。
P.189 「庵治村」の「西天満宮・東天満宮」についての記載あり。仁和2年に道真が讃岐の国へ来た時にこの浦でしばらく休んだ。そこに里人が祠を作り道真を祀ったのが西天神であり、そこから東に約5丁の所にも菅公を祀った祠があり、それが東天神であるとしている。
P.223 「高松市東部」の「愛行院」「華下天満宮(はなしたてんまんぐう)」についての記載あり。真言宗愛行院の僧増圭は道真が讃岐在国司任中に親しくしており、道真が任を終えて帰京する際に自画像を賜った。道真薨去後、愛行院の境内に社を建て神像としてこれを祀ったことが社の縁起であるとしている。神像はいつのころにか失われたとされている。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)では道真が国司として讃岐に上陸した時最初に休息した場所であるとの記載がある。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)に所在地は高松市片原町との記載あり。
P.331,332 「檀紙村」の「中間天満宮(なかつまてんまんぐう)」「綱敷天神」の記載あり。道真が讃岐国司在任中に親しかった秦久利が、太宰府へ左遷の折に讃岐に立ち寄った道真より自画像を賜り、それを祀ったのがこの社の由来であるとしている。秦久利は娘に道真の血を引く縁者を養子に迎えた人である。このことは『讃岐人物風景1』 (四国新聞社/編 大和学芸図書株式会社 1980.7)のP.51にも詳しく述べられている。道真薨去後、社を建て神像を移して祀り綱敷天神といわれているとある。
P.337 「上笠居村」の「天神郭(てんじんくるわ)」についての記載あり。P.343の「香西町」の「天満宮」に納められている道真の自画像が、なぜ平賀某から香西氏に祀られることとなったのか記載されている。平賀某の子孫が香西氏の臣となったため神影を献上したためであるとしている。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)によると、香西佳清が築城した藤尾城の本丸の南東側の郭のことであり、その一角に香西天満宮があったことから「天神郭」の名称となったとある。
P.343 「香西町」釣浦にある「天満宮」についての記載あり。道真太宰府へ左遷の折に讃岐へ立ち寄った際に別れを惜しんだ人々の一人である香西浦漁師平賀某という人が道真の自画像を賜り祀っていたものを、香西資村が城中に祀った後、この社に納めたとしている。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)によると、平賀某とは道真が国司の時に孝子として表彰した漁師とのことである。
P.348 「香西町」の「神在山(しんざいやま)」は道真が筑紫に左遷される時に立ち寄ったところであると記載されている。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)によると現在の神在港の西隅にある小山状の岬を「憂しが鼻」といい、別名「物憂しが鼻」「牛が鼻」「憂岬」「天神の鼻」ともいう、とある。道真が太宰府への途中で船泊まりし、国司時代にゆかりのあった人々と別れを惜しんだ場所であるため「憂しが鼻」という名になった、との記載あり。滝宮天満宮に伝わる道真ゆかりの宝物(衣と自画像)もこの時に賜ったものである。
P.351 「下笠居村」の「天神馬場」は道真が馬で駆けて遊びにきた地であるとの記載あり。『郷土史事典 笠居郷探訪 第2版』(立山信浩/著 2014.7)によると、現在の根来公園の一部であり、根来寺の北500メートルのところにある池の周辺のことを指すという。
p.403 「松山館跡」の記載あり。青海村にある。
P.430,431,432 道真が国府にて詠んだ詩の記載あり。
P.433~437 城山神社の項に道真が城山にて祈雨を行った様子の記載あり。
P.437 道真ゆかりの「府中河の南迯田にある天満神社」の記載あり。
P.445 「府中村」の「天満神社」の記載あり。祭神は菅原道真。
「府中村」の「死出池」(地名)についての記載あり。道真が雨を城山神に祈る際に、民衆が死出の服を身につけ集まり待っていたためこの名がついたとのこと。
P.465~469 滝宮念仏踊に関する記載あり。
P.466 瀧宮天満宮の境外末社である「孔聖神社」の記載あり。孔子の木造が祀られており、喜来という土地に讃岐国司在任中に道真が建てた霊廟(孔子を祀る)に祀られていたものであるとのことである。
P.467 「瀧宮村」の「天満宮」についての記載あり。
P.469,470 「菅公御殿跡」「有岡御殿」「有岡天神祠」「菅原道真公事蹟」についての記載あり。菅公御殿跡というが菅公は国府にいらっしゃったので、いつもは下官の役人がいて、菅公は時折訪れて政を聞いていたのであろう、としている。
P.472 久正神社の記載あり。道真が来拝した孔子廟の跡であるとの記載あり。
P.477 道真ゆかりの「松谷神社」「白梅神社」の記載あり。松谷神社は道真が北斗七星を祀っていた跡に建てられたとのことである。白梅神社については後述。
P.550 「丸亀市」の「中府(地名)」についての記載あり。仁和年間に菅原道真公が讃岐の国司として来た時に、支庁をこの地に置き那珂郡の治府としたことが地名の由来として伝わっているとのことである。
P.551 「丸亀市」の「会下天満神社」についての記載あり。中府字景川にある村社であり、国府の支庁を置いていたので道真はこの地に度々出張し郷人の苦労をお聞きになっていた。後年人々は道真の恩徳を思慕しここに祠を建てて祀ったことが社の縁起であるという。また、道真が讃岐国司在任中にここより見た風景が大変美しいと称賛しこの地を景川と名付けた、とのことである。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)には、任国を去るときに道真が自ら神像を刻み家臣で柞原郷の長者である吉子某に賜り、それを祀ったとの記載がある。
P.558 「丸亀市」の「天神社」の記載あり。津森字宮浦にあり、道真が讃岐国国司として郡内を巡視の折にこの社に参詣したことの縁によりお祀りしているとの記載あり。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)にも記載あり。古くは今の社地より東北2町ほど離れた中府村加治州森にあり、「加治州天神」と呼ばれていたとのことである。
P.581 「南村」の「天満神社」について記載あり。道真が讃岐国司として郡内を巡視の折にこの地に憩ったときに、自筆の神影を賜りそれを祀ったとのこと。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)にも記載あり。所在地は仲多度郡南村大字山北字池田となっている。
P.713 「常盤村」の「植田天神松」についての記載あり。常盤村大字植田菅原神社境内にある。道真お手植えの松であり、その下に「菅公腰掛石」があるとのこと。
『飯山町誌』 飯山町誌編さん委員会/編 飯山町 1985.8
P.88,89,90 讃岐国司時代の道真についての記載あり。讃岐にある道真を主祭神とした天神社は128社、合祀祭神とした神社は107社あるとの記載がある。道真の死後京都に「御霊信仰」が起こり、道真を怨霊として恐れたことが天神信仰の起源であることに対して、讃岐にある天神社は道真が国司として善政を行ったことや道真の讃岐での動静に関することが起源となっており、讃岐の人々は道真の治績を追慕する面が大きいとしている。干害に苦しみ続けた讃岐の農民たちにとって道真は常に祈雨の神であると述べている。
『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』 佐藤篤/著 2012.3
「讃岐国における道真伝承」等の記載あり。香川県内の道真にゆかりのある神社、その所在地等紹介されている。
『讃岐香川郡志』 青井常太郎/編 香川県教育会香川郡部会 1944.12
P.128~135 讃岐国司在任中の道真についての記載あり。
「天神馬」 笠井郷青峰山根来寺のあたりで道真が馬で来遊したところであり、それが地名として残っている。
「坂田郷橋詰の別館」についての記載。『翁嫗夜話』にも「菅丞相別館は橋詰にあり、これを橋詰御殿という。今里人はその跡を天神領といういう」とある。
道真左遷の折に讃岐に立ち寄った際に賜った自画像の記載あり。秦久利が賜ったのが「綱敷の神像」であり、平賀雅俱が賜ったものが「水鑑の神像」であるという。また、菅公の像はほかにも「渡唐天神像」や「火雷天神」「牛天神」など色々あるとのことである。
「綱敷天神」についての記載あり。
P.376~378 「菅原神社」についての記載あり。祭神は菅原道真。香西資村が勧請したと伝えられている。『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』(佐藤篤/著 2012.3)によると所在地は香川郡香西町西打とある。道真が讃岐国司在任中に孝子として表彰した笠居郷の漁師である平賀某というものが、道真太宰府へ左遷の折に讃岐に立ち寄った時に道真の自画像「水鑑の神像」を賜った。平賀の子孫が香西氏の家臣になると神像を香西資村に献じた。資村は勝賀城の一画に祠を建てて祀り「天神廓」と呼ばれた。資村の兄資幸は福家の城主となりその子である資俊は資村の娘を娶った。資俊は菅神を崇信していたので、妻は父資村に請うて道真の神像を譲り受け、城中は戦火に合うおそれがあるため城下の来迎院に祠を建てて祀らせた。その後福家氏も滅び、寺も戦火にあったため実相寺の跡に草堂を建てて神像を祀った。その後、神像は高松市片原町の愛光院の所有となり、愛光院の僧海室が弘憲寺に移ったため神像も弘憲寺のものとなった。源英公(讃岐高松藩初代藩主松平頼重)はこの神像を中ノ村の神廟に祀りたいと熱望していたことを弘憲寺の宥阡が知り、これを献じた。これが「中野天神」の神影である、との記載がある。
P.381 「中川神社」についての記載あり。祭神は菅原道真。所在地は香川郡鷺田村大字馬場字中川原とあり、俗に「中川天神」と呼ばれているとある。道真が讃岐国司であった時に、鷺田村の字橋詰に別館を作り来館していた。その時に親しくしていた秦久利は、道真薨去後にこの地に祠を建てて祀ったとのことである。
P.422~425 「円座村村社天満神社」についての記載あり。祭神は菅原道真命。所在地は大字山崎の上所にあり「綱敷天満宮」ともいう。中間郷北岡の城主秦久利は道真が讃岐国司在任中に忠誠を尽くして奉仕した人であり、久利の居城北岡城に道真が訪れたり、道真の坂田郷にある橋詰別館を久利が伺ったりするなどの交流があった。久利は老いており子がなかったことを道真は憐れに思い、道真の族子を久利に賜い家を継がせた。その後、道真が太宰府へ左遷の折に立ち寄った笠井の郷憂ヶ鼻に会いに行ったが、面会が許されなかった。その翌年に、久利は密に太宰府まで会いに行き、道真に謁し歌を賜った。そして筑前博多に船を止めると、道真が浜辺の船の帆綱を敷いて休んだ。その時の姿を描き飛梅の核を一顆添えて賜ったものが綱敷天神である、との記載がある。神社内の「五色梅」とは、この梅の種を植えて成長したものであるという。その他、道真が影向していた「影向松」、道真が腰を掛けた「腰掛石」、久利が道真のために建てた別館跡「天神畑」の記載がある。
P.539,540 「下笠居村根来寺」の道真が遊覧した「天神馬場」についての記載あり。
P.898 「下笠居の菅公に関する伝説」についての記載あり。道真が太宰府左遷の折に讃岐に立ち寄った「神在山」、菅公が神在が鼻に上陸した時に馬を隠した「馬かくし」、菅公が馬で神在山を越えて西生島の鬼松のあたりまで進んだ時、時平方の人が後ろから菅公を見ると、その辺一帯の松が鬼のように見え恐れをなして引き返したという「鬼松」、時平方のものを追い返し神在まで帰る時、歌の音頭を取られながら山越えをしたという「音頭越」、生島の海岸に菅公の馬の蹄の跡が残るという「馬蹄石」の記載がある。
『香川のトリセツ』 昭文社編集部(「トリセツ」編集チーム)/編 昭文社 2021.10
P.66,67 讃岐国府での道真についての記載あり。
『菅原道真事典』 神社と神道研究会/編 勉誠出版 2004.12
P.132 滝宮天満宮についての記載あり。
P.259 260 道真の讃岐時代についての記載あり。
『讃岐の伝説』 安川 満俊/編 讃岐写真作家の会 1992.11 P.26~29 道真の雨乞いについての記載あり。写真(白黒)多い。
『讃岐ものしり事典 合冊改訂版』 香川県図書館協会/編 香川県図書館協会/発行 1982.4
P.55 「菅原道真と讃岐について」の項あり。
P.122 「菅原道真ゆかりの下笠居の牛鼻崎、神在山について」の項あり。
『新香川風土記 [1] 香川県の歴史と風土』 新香川風土記刊行会/編集 創土社/発行 1982.10 P.71,72 「讃岐国司菅原道真」の項あり。
『さぬきのおもしろ伝説 水の巻 1 』 北條 令子/著 みやもとやすこ/イラスト 松林社 1991.7
P.84,85 「お藤さま化粧の井戸」のお話しの掲載あり。
『香川県雑学読本』 阿津 秋良/著 丸山学芸図書/発行 1993.8 P.99~101 「天神さんの多い香川県」の項あり。
『讃岐の道』 香川県土木部内「峠の会」/編 香川県土木部内「峠の会」 1974.1 P.76~79
『四国の交通史』 建設省四国地方建設局/企画監修 四国の道路を考える会 1999.3 P.92,93
『古からのメッセージ 第3部~第5部』 香川県埋蔵文化財センター/編集 香川県埋蔵文化財センター 2012.12
P.86 四国新聞2005.4.27に掲載された「道真と雨ごい」の記事が収録されている。
以下の所蔵資料に白梅神社(はくばいじんじゃ)、松恵神社に関する記載あり。枌所西には白梅神社の存在を確認することができず、綾川町小野に同名の神社がありそちらを調べた。
『古今讃岐名勝図絵』 梶原藍水/編 歴史図書社 1976.11
P.477 白梅神社の記載あり。並松にあり菅公を祀る社なり、とある。
P.469「有岡館跡」の項に「菅公御殿跡と言へり然れ共菅公は國府に居給ふ事明らなれは此所には下官の者来り居て折々には公も来り給ひて政を聞給へる所なるべし」とある。
『綾南町誌』 綾南町誌編纂委員会 編 綾南町 1998.3
P.718,719 松恵神社の記載あり。もとは道真の別荘館がありその跡が神社となったとの由来が書かれている。社名は有岡天神、天満宮、松恵天満宮、松恵神社と変わっている。俗に「お藤天神」と呼ばれている。
P.133 「松恵神社」の記載あり。
P.1151,1152 「お藤天神(松恵神社)」についての記載あり。道真とゆかりのあるお藤とよばれた女性と菅公を祀った社であるとのことである。この地は小高い丘になっており昔南側はふちになっており、道真はお藤と釣りを楽しんだという。社殿の東南には「菅公お手植えの松」があり、釣りの時に道真が衣をこの松にかけたので「袖掛けの松」とも言われていたが、今は残っていない。お藤天神の東あたりに「有岡御殿」があったと伝えられており、お藤が使ったという井戸が残っているとの記載あり。
P.1157 「口承文芸」の「滝宮地区」の「横山(横山連峰)に伝わる話」の中に、「横山のたぬきがよく羽床浦山の白梅神社へ嫁入りする行列を見た」との記載がある。この記載より『ゼンリン住宅地図香川県綾歌郡綾川町』(北九州 ゼンリン 2023.3)を調べ、記載図32に白梅神社の位置が確認できた。
P.1248 地名の「小野地区」の項に「白梅」の記載あり。「菅公の旧跡、白梅塚あり。白梅林よりきたのか。」とある。
『羽床村誌』 秦一郎/編 羽床青年会 1919.12
P.29 「白梅神社」についての記載あり。「祭神菅原道真公、在大字小野」とある。
P.81 松谷神社を東に下ったところに「菅原道真に縁ある竹内慶長菓子店あり、名物白梅花惠の露あり、其西に白梅神社あり菅公を祭る」との記載あり。
『讃岐人物風景1』 四国新聞社/編 大和学芸図書株式会社 1980.7
P.48,49 松恵神社の伝承(有岡の丘の別館・お藤について)の記載あり。
『讃岐国と菅原道真 念仏踊の起源』 佐藤篤/著 2012.3
P.47 「松恵社(有岡天神)」についての記載あり。
「白梅神社」の記載あり。「祭神は菅原道真、住所は綾歌郡羽床村大字小野字白梅」とあり、今の綾川町小野である。「口碑に、菅公瀧宮に在任の頃此処に白梅ありて遊覧せらる。公薨去の後一祠を建て公を祀れりといふ」との記載あり。
『讃岐の街道 金毘羅参詣道 草創シリーズ1』 草創の会/編・発行 2006.03
P.66,67 小野にあった菓子屋(竹内家)に「紅白梅、綾千鳥、白梅花、恵の露」という菅原道真に縁が深い米菓子があり、松平家御用を務めていたとの記載がある。また、道中に「白梅神社の社が見えます」との記載あり。
以下の所蔵資料に白梅神社、松恵神社の記載なし。
『綾上町文化財 ハイキングガイド』綾上町教育委員会・綾上町体育協会 著 綾上町発行年不明
『白石武徳史』
川北清義・高嶋清一・佃英義/編 白石武徳鶴亀ニコニコ会白石武徳史編集委員会/発行 1995.5
『綾上町誌』 綾歌郡綾上町教育委員会/編 香川県綾歌郡綾上町 2005.3