『式内社調査報告第十二巻東山道』P138~によると、
「延喜式では「ムマミチイソヘ」或は「ムマガチイソヘ」と訓んでゐる。『式内社考証』などでは「ウマヤヂノイハベノジンジヤ」と訓んでゐる」
「野洲郡守山村吉身六二七番地、いまは守山市吉身町である」
「現在の主神は健速素盞嗚命と大己貴命となつてゐるが(中略)この神社の起源から考へると第一次の祭神は石邊公の祖神を祭祀した古代信仰に発する」
『守山市誌 生活民俗編』P66~68「第1部守山の民俗文化第1章祭りと年中行事一〇、サンヤレ(吉身)」によると、
「吉身の産土社馬路石辺神社は、延喜式神名帳に出ている野洲郡九座の一社で古いお宮です。社名の「馬路」は古郷「馬道郷」に因んでいて、ここに石辺君という豪族がおり、その氏神であったことによるといわれています」
『中山道守山宿まるごとガイドブック』P4によると、
「今からおよそ1350年前の白鳳時代に、素戔嗚尊と大己貴命を祀って創建されました。この辺りの古郷、馬路郷の豪族石部君氏の氏神でもあり、延喜式に記載された古社でもあります。また、荘園の時代には田中荘の総鎮守として、正一位田中大明神と崇められました」
『ふるさと守山めぐり』P14によると、
「馬路石辺神社は式内社です。この神社は別に「田中大明神」とも呼ばれてきたようです」
『滋賀県野洲郡守山村馬路石辺神社之景』によると、
「後奈良天皇弘治二年佐々木義賢當社ヲ祈願シテ楼門ヲ建設シ祭資ヲ寄附セラル」
「元亀天正ノ頃當社屢々陣営トナリ軍馬ノ蹄ニ汚サル」
「佐々木ノ将立入某種村某ト益須寺ニ篭ル」
「織田信長佐久間信森ト戦争ノ時益須寺焼亡ス此時ニ當リ楼門迄悉ク焼失シ神宝旧記等灰燼ニ属ス其他口碑ノ説許夛アレドモ之ヲ昏ス」
『滋賀県神社誌』P193によると、
「鎮座地 守山市吉身町六二七
主祭神 建速須佐之男命 大己貴命
境内社 事代主神社 住吉神社 神明神社 八幡神社 山王神社 稲荷神社
神紋 木瓜」