レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20200911
- 登録日時
- 2020/11/29 00:30
- 更新日時
- 2021/01/08 14:14
- 管理番号
- 0000201494
- 質問
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解決
唐津にある増田神社の主祭神・増田敬太郎巡査が、北海道開拓に関わったことに関する資料はありますか。
- 回答
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次の資料に記載がありました。
(1)『鳴呼警神増田巡査』 連 修/述 佐賀県警察部 1931
P6 明治25(1892)年には、東亜の風雲を達観して将来の日本を経営すべく北海道の開拓に志し、自ら率先して郷民数十人を率ひ、朔北の地を堅めんと志したのであります。~然し不幸にして活動の度を過ぎ、心を労すること大にして居ること半年にして後事を後進に託して、再び郷里に巳むを得ず帰ったのであります。
(2)『巡査大明神全伝』 内田 守/著 金華堂 1976
P18-19 明治23(1890)年のこと、郷土人数十名を募集し、引率して、北海道へ渡ったのである。~一行は長崎に出て、船で北海道の小樽に上陸、岩見沢の開拓地に入った。~食料は少なく、飲料水が悪くて腹を壊す者が多く、増田氏も腹を病み、開拓地に見切りをつけることになった。
P21 増田氏が団長として土地買収に投入した個人資金も、相当なものだったらしく、その全権利を放棄して帰国したので、その権利は玉名から同行した団員が承け継ぎ、「増田農場」と名づけて、長く記念した由である。
(3)『警神.増田敬太郎百年祭』 増田神社奉賛会 1994
P1 明治23(1890)年9月 北海道開拓団を引率して渡道するが、事志に反し、病を得て半年にて帰郷する。
(4) 『神様になった人の話 増田敬太郎物語』 肥前町企画振興課/制作 肥前町 1994
P10 明治23(1890)年、泗水村近郊の人たち数十名と北海道開拓へと向かいました。敬太郎は開拓団長として一行を率い、長崎から船で小樽に上陸し、さらに岩見沢の開拓地を目指しました。北海道の開拓事業は想像以上の悪条件で、仕事も食料も少なく、さらに飲料水が悪いので腹を壊す者が続出し、とうとう敬太郎も病に倒れ帰郷しました。北海道で土地を購入していたのですが、帰郷する際にすべての権利を放棄することになり、北海道に残る団員に譲渡しました。その土地は、「増田牧場」と名付けられ、功績が永く残されました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219)
- 個人伝記 (289)
- 参考資料
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(1)連 修/述. 鳴呼警神増田巡査 : 増田神社の由来. 佐賀県警察部, 1931.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I071088437-00 -
(2)内田 守/著. 巡査大明神全伝 2版. 金華堂, 1976.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I013630323-00 -
(3)増田神社奉賛会. 警神.増田敬太郎百年祭 増田神社百年祭 記念. 増田神社奉賛会, 1994.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070719353-00 -
(4)肥前町企画振興課/制作. 神様になった人の話 増田敬太郎物語 : 増田さま100周年記念誌. 肥前町, 1994.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I070966446-00
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(1)連 修/述. 鳴呼警神増田巡査 : 増田神社の由来. 佐賀県警察部, 1931.
- キーワード
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- 増田神社
- 増田敬太郎
- 北海道開拓
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000289936