レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年03月12日
- 登録日時
- 2020/08/10 09:46
- 更新日時
- 2020/08/10 09:46
- 管理番号
- 9000029488
- 質問
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終戦後、山梨県甲府市にある舞鶴城公園のお濠を埋め立て、アメリカ軍がカマボコ型の兵舎を建てたと聞くが、どのようなものか。いくつ建っていたのか知りたい。
- 回答
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アメリカ軍のカマボコ型兵舎は、「コンセット」という。
山梨軍政部は、将校6人(途中から7人)・兵士25人であった。兵士たちは舞鶴城公園にカマボコ型兵舎を仮設して、住居とした。「座談会米軍占領下の甲府市を語る」(「甲府市研究」第3号)によると、「医師会館の隣に住まい(コンセット)を建てた」「お城の中にも3か所くらい宿舎があった」「米兵の宿舎はカマボコ兵舎と呼んでいた」とある。2,3か所に宿舎が建てられていたが、戸数は不明。
- 回答プロセス
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1.『山梨県史』を確認
・『山梨県史』通史編6によると、1945(昭和20)年9月の段階で日本は間接統治方式で占領されることとなり、連合国軍の15の軍政グループ傘下に各県1つずつの軍政中隊が割り当てられた。山梨軍政部は、将校6人(途中から7人)・兵士25人だった。
・軍政部の事務所は、当時の県立図書館に置かれ、焼け残っていた山梨県医師会館、三楽荘、常盤ホテル、甲府水道水源事務所などが接収されて将校住居に充てられ、兵士たちは舞鶴城公園にカマボコ型兵舎を仮設して住居とした。住居数は不明。
・参考文献として「座談会米軍占領下の甲府市を語る」(「甲府市史研究」3号)
2.『甲府市史』を確認
・『甲府市史』通史編第4巻によると、医師会館や平瀬の貯水池事務所が接収されて将校とその家族の宿舎になり、舞鶴城公園にはカマボコ型の兵舎が建てられて兵士たちが暮らしていた。戸数は不明。
3.1の参考文献として挙げられていた甲府市史研究を確認。
・「甲府市史研究」第3号によると、「医師会館の隣に住まい(コンセット)を建てた」「お城の中にも3か所くらい宿舎があった」「米兵の宿舎はカマボコ兵舎と呼んでいた」「城の中にコンセットが3つほど並んでいたとすると、かなりの数の軍人が住んでいたことになります」
4.「山梨日日新聞縮刷版データベース」で「山梨軍政部」を検索
・「山梨日日新聞」平成12年4月3日17面「やまなし20世紀群像 50米軍進駐」の記事にはカマボコ兵舎の記述なし。「占領時代の米軍政府付近」の略図あり。これによると、「下士官宿舎」は道を挟んで2か所ある。
5.4で民間情報教育担当官スターヴァンの「アメリカ・イン・ジャパン 1945~1948」が紹介されていたので確認すると「チームの本部からそう遠くない所に小さな二階建ての建物があった。『あれが独身将校宿舎で、下のほうのカマボコ兵舎が下士官用宿舎で、その下が駐車場になっています。』」p.39の記述があるが、戸数は不明。
6.甲府市の写真集などを確認するが、山梨軍政部に関する写真は確認できなかった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 10版)
- 軍事施設.軍需品 (395 10版)
- 参考資料
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山梨県/編集 , 山梨県. 山梨県史 通史編6. 山梨日日新聞社, 2006.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005561037-00 (p.396) -
甲府市市史編さん委員会/編 , 甲府市市史編さん委員会. 甲府市史研究 第3号. 甲府市, 1986.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I005544583-00 (pp.45-46)
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山梨県/編集 , 山梨県. 山梨県史 通史編6. 山梨日日新聞社, 2006.
- キーワード
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- 山梨軍政部
- 兵舎
- アメリカ軍
- 占領軍
- 占領期
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000285733