レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20180924
- 登録日時
- 2020/01/12 00:30
- 更新日時
- 2020/05/11 12:35
- 管理番号
- 0001003378
- 質問
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解決
石垣島の宮良の地域は西表島古見から移住してきたというが、宮良地区はどのぐらい古いのか。
- 回答
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1.
「宮良」の確認できる史料として、『八重山島年来紀』(八重山島の在番の行政日誌)では、1628年の項目に、「宮良」が記述されている(参考資料①)。
また1635年に作成された『琉球国郷帳』や1649年に薩摩藩から幕府へ提出された『正保国絵図』に関連する「琉球国八重山島絵図」にも、「宮良」が記述されている(参考資料②)。
2.
参考資料③には、1611年の慶長検地の史料で「宮良」が確認できると記述されている。
しかし、慶長検地で作成された検地帳は現存していない(参考資料④)。
3.
インナーラ・アンナーラ(西嘉和良・東嘉和良、西カワラ・東カワラ)の兄弟による宮良・白保の村立て伝説が、『球陽外巻 遺老説伝』『琉球国旧記』『琉球國由来記』に記述されている(参考資料③⑤~⑧)。
宮良村を創設した時期は伝承されていないが、14世紀頃と考えられるとある(参考資料③)。
4.
西表島の古見村の人達が宮良村へ移住したことは、明確には確認できなかった。
ニロー神(赤マタ、黒マタ、白マタ)に関する参考資料⑥で、ニロー神は、古見村から小浜島を経て、宮良村へ伝承されたとある。
また、小浜島は古見村から移住してできた部落と記述されている。
しかし、古見村・小浜島から宮良村への移住に関しては記載されていない。
宮良村では、1771年の「明和の大津波」で、住民1221人中、1050人が溺死した(参考資料③)。
宮良村の再建で移住させられたのは、小浜島の人達とある。
しかし、この場合には、宮良村の村立てとは関係はない。
参考資料:
①
『石垣市史叢書 13 八重山島年来紀』(石垣市総務部市史編集室∥編、石垣市役所、1999.2)
p16 「崇禎元戊辰(一六二八)年 掟」の文書で、「宮良間切」の記述がある。
p19 「崇禎二年己巳(一六二九)年 ミやら間切」の文書で、「宮良村」の記述がある。
②
『琉球国絵図史料集 第1集 正保国絵図及び関連史料』(琉球国絵図史料集編集委員会∥編、沖縄県教育委員会、1992.3)
p93 「正保国絵図」に関連する「琉球国八重山島絵図」で「宮良間切」の記述がある。
p160 「琉球国郷帳」で、「宮良間切」の記述がある。
③
『宮良村誌』(宮良村誌編集委員会∥編、宮良公民館、1986.5)
p9 「呼称」の項目で、「宮良はメーラと呼称し、古くから「宮良」の字が当てられてきた。文献上の初見は、慶長の検地(一六一一年)の記録であろうと思う。同記録には「宮良間切宮良村」とあり、寛永五年(一六二八)並びに寛永六年(一六二九)間切改めの際にも、上記の村名が記録されている。「八重山島年来記」には「宮良村」、「宮良・白保二ケ村」等とあり、村人は現在「宮良」を「メーラ」と発音している。」の記述がある。
p19-22 「宮良村の発生と展開」の項目で、P21「宮良、白保二ケ村を創始したと伝えられるインナーラ・アンナーラの二兄弟こそ、まさしくこの時期を代表する指導者なのである。…インナーラ・アンナーラの築いた宮良村と考えられるのはクバント遺跡である。クバントウの地に最初の宮良村が成立したのである。600年以前一四世紀頃であるとおもわれる。新たな宮良村に集住した血族集団は精神的紐帯としての聖地(ウタキ)を、かつての血族の居住した区域に定め、信仰の対象とするようになったのもこの頃であると考えられている。山崎御嶽の由来はそこらの経緯を示しているとおもわれる。」の記述がある。
p27 「人口動態」の項目で、「明和八年 一七七一 人口計 一七一 大津波のため一、〇五〇人死亡」の記述がある。
p33-35 「創成説話」の項目で、P33 「宮良村の創成にかかわるインナーラ・アンナーラの物語がある。「球陽」外巻「遺老説伝」巻二「琉球国由来記」巻二十一の他数文献の記録がそうである。インナーラ、アンナーラは宮良村での呼称で、記録には「西嘉和良・東嘉和良」(遺老説伝)、「西カワラ、東カワラ」(琉球国由来記)となっている。」の記述がある。
p71 「小浜からの移住は野国親雲上在番位中になされた」の記述がある。
④
『沖縄大百科事典 中 ケ~ト』(沖縄大百科事典刊行事務局∥編、沖縄タイムス社、1983.5)
p11 「慶長検地」の項目で、「作製された検地帳は現存せず」の記述がある。
⑤
『八重山文化論集 第2号』(八重山文化研究会∥編・刊、1980.3)
p29-59 「宮良村における御嶽信仰 ―「山崎御嶽」に関する一考察― 前盛義英」の論文で、p32 「昔八重山に二人の兄弟がいた。兄は西嘉和良、弟は東嘉和良と言った。…彼らは部落建設上、将来性のある土地を選んで住むことを決め、兄は宮良(現在地)を選び弟は白保(現在地)を選んで移り住むことになった。」の記述がある。
p58 「宮良村の歴史や民俗資料はほとんどなく、また、明和の津波(一七七一年)によって伝承も中断されたのではないかと考えられる。」の記述がある。
⑥
『南島[複製本] 第1輯』(野田 裕康∥編、[沖縄県立図書館]、[2011.3])
p60-64 「小濱島のニロー神 宮良賢貞」の論文がある。
p61 「小濱島はクンモーマ(小古見)で古見人が移住した部落だと傳へられて居る。」の記述がある。
p64 「ニロー神事は古見邑から各地に次の様に傳来した。古見邑―小濱島―宮良邑(八重山)」記述がある。
⑦
『石垣市史叢書 12 大波之時各村之形行書・大波寄揚候次第』(石垣市総務部市史編集室∥編、石垣市役所、1998.9)
p27 「宮良村 住民は男五七〇人、女六五一人、合計一、二二一人いたが、大津波が揚がり、男四四三人、女六〇七人、合計一、〇五〇人が溺死した。」の記述がある。
⑧
『八重山歴史 新訂・増補』(喜舎場 永珣∥著、国書刊行会、1975.12)
p256-257 「古見村」の項目で、「古見村西表島東部での大きな村でその創立はいたつて古く、文献が不備なため、はつきりしないが政治産業、交通の中心で古くは造船所までも設置されたくらいであつた。…古見村の人口が最初文献に表われてきたのは慶安四年(一六五一)で、当時の古見村は大枝、平西、三離、与那良の四部落の総称であって二二三人となつている。」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『石垣市史叢書13 八重山島年来紀』(石垣市総務部市史編集室//編、石垣市役所、1992.2) (p16、19)
- 『琉球国絵図史料集 第1集 正保国絵図及び関連資料』(琉球国絵図史料集編集委員会//編、沖縄教育委員会、1992.3) (p93、160)
- 『宮良村誌』(宮良村誌編集委員会//編、宮良公民館、1986.5) (p9、19-22、27、33-35、71)
- 『沖縄大百科事典 中 ケ~ト』(沖縄百科事典刊行事務局//編・刊、1980.3) (p11)
- 『八重山文化論集 第2号』(八重山文化研究会//編・刊、1980.3) (p29-59)
- 『遺老説伝 球陽外巻 原文・読み下し』(嘉手納 宗徳//編、角川書店、1978.9) (p140-141)
- 『琉球国旧記 訳注』(首里王府//編、榕樹書林、2005.7) , ISBN 4-89805-111-1 (p337)
- 『琉球國由来記 琉球王府編 』(伊波 普猷[ほか]//編、風土記社、1988.2) (p601-602)
- 『南島[複製本] 第1輯』(野田 裕康//編、[沖縄県立図書館]、[2011.3]) (p60-64)
- 石垣市史叢書12 大波之時各村之形行書・大波寄揚候次第』(石垣市総務部市史編集室//編、石垣市役所、1998.9) (p27)
- 『八重山歴史 新訂・増補』(喜舎場 永珣//著、国書刊行会、1957.12) (p256-257)
- キーワード
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- 宮良
- 古見
- 西表
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000272491