出典が明記された資料を中心にご紹介します。
1 公的記録
・『昭和天皇実録 第9』(宮内庁/著 東京書籍 2016)
p.384-385(見出し)「昭和19年7月9日 皇太子日光へ疎開」
「皇太子は疎開のため、東宮仮御所より日光田母沢御用邸に行啓、滞留する。その後、翌年七月二十一日、皇太子は同御用邸を発し、さらに疎開のため日光湯元に行啓、同年十一月七日の帰京に至るまで南間ホテルに滞留する。」
記録の依拠資料が多数併記されています。
2 天皇御自身や側近の回想等
・『若竹のごとく 戦争と皇太子さま』(高杉善治/著 読売新聞社 1968)
p.13-55「日光時代」
著者は学習院軍事教育御用掛を務め、皇太子の日光疎開へも随行されたそうです。詳細な回想録ですが、田母沢御用邸時代の記述は少なく、奥日光湯元に移動してからの生活に比重がおかれています。
・『昭和史の天皇 5』(読売新聞社/編,発行 1970)
p.52-134「日光の皇太子さま―陛下の周辺・その三」
当時の側近達からの聞き書きが記されています。文中に発言者名が示されています。
・『天皇への道 明仁陛下の昭和史』(吉田伸弥/著 読売新聞社 1991)
p.92-117「第六章 疎開」の項に、日光疎開に関する記述があり、田母沢御用邸滞在時の姿を写した写真も数枚掲載されています。(p.100-117) 巻末に参考文献一覧あり。
本文から、特徴的な記述をご紹介します。
p.101-104「体操で体づくり」
御用邸滞在時の体操による体づくりについて、東宮傳育官2名の聞き書きが記されています。
引用元は、前出の『昭和史の天皇 5』とあります。
p.105-107「両親からの手紙」
御用邸滞在時にやりとりした、昭和20年3月付の昭和天皇、皇后の手紙の文面を掲載されています。
p.107-108「二十年四月二十九日の日誌」
皇太子が記した日誌の文面が掲載されています。
出典は『側近日誌』(木下道雄/著 文芸春秋 1990)で、当館でも所蔵しています。
・『人間昭和天皇 下』(高橋紘/著 講談社 2011)
p.20-22「日光田母沢御用邸」
皇太子時代の1982(昭和57)年の記者会見の内容が引用されています。(疎開中の日光全体の印象)
・『平成の天皇と皇室』(高橋紘/著 文藝春秋 2003)
p.47-49「日光の長男と東京の両親」
天皇の1996(平成8)年の記者会見の内容が引用されています。(51年ぶりに御用邸を訪れた印象)
・『陛下、お尋ね申し上げます』(高橋紘/著,鈴木邦彦/著 現代史出版会 1982)
昭和20~57年の天皇、皇后、皇太子、美智子妃、浩宮の記者会見記録集です。
「Ⅱ 皇太子、美智子妃、浩宮と一問一答」に、皇太子発言として、日光の疎開先でB29を見た旨の記述があります。(p.208)
3 その他確認した資料
記述内容は、前出の資料で述べられている事項が中心です。
・『天皇家の戦い』(加瀬英明/著 新潮社 1975)
p.75-80「少尉になれなかった皇太子」の項に、日光疎開に関する記述があります。(p.76-80)
「週刊新潮」の連載をまとめたものです。巻末「あとがき」に取材者や参考文献の情報があります。
・『ジミーと呼ばれた日 若き日の明仁天皇』(工藤美代子/著 恒文社 2002)
p.44-49「第一章 戦禍の朝に生まれて 奥日光の冬」
この章は前出『若竹のごとく』を主要な参考文献として挙げています。巻末にも参考文献一覧あり。
・『近現代の皇室と皇族』(小田部雄次/著 敬文舎 2013)
p.211-213「皇太子の家庭教師」の項に、田母沢御用邸での日課について記述があります。
参考文献一覧あり。