レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年1月15日
- 登録日時
- 2017/12/15 16:52
- 更新日時
- 2020/12/28 21:39
- 管理番号
- 塩尻569
- 質問
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解決
京都「洛中・洛外」の境界はどこか?境界がわかる地図はあるか?
また、洛中・洛外の境界が豊臣秀吉の「御土居」とされるなら、御土居の境界がわかる地図はあるか?
- 回答
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豊臣秀吉が天正14~19年(1586~1591)京都の町全体を「御土居(おどい)堀」という城壁で囲み、御土居の中を「洛中」、外を「洛外」とした。【資料1、4、9】
「洛中、洛外」という呼び方は【資料3、5】に中国の古都、洛陽になぞらえたとしている。
また【資料9】には御土居の場所を示す地図も掲載。
- 回答プロセス
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まずOPACで「洛中」「洛外」を検索したところ、安野光正スケッチ画集「洛中洛外」や「洛中洛外図屏風」を掲載した美術書がヒット。屏風絵では境界はわからないので回答に使えず。
[資料6][資料7]に洛中・洛外と呼ばれるようになった記述あり。ただ、境界が載った地図などはなし。
京都の地図帳や、NDC2類「歴史」安土桃山時代と「地理」京都の書籍で「洛中、洛外」の範囲を示す地図などを探したが、なし。
NDC2類に地名辞典など地名に関するレファレンスブックが複数あった。
[資料1][資料2][資料3][資料4][資料5]
これらによって、豊臣秀吉により御土居が建設されるまでは、境界が不明確であったことがわかった。
そこで次に、地図帳や、NDC2類「歴史」安土桃山時代と「地理」京都の書籍で「豊臣秀吉によって建設された『御土居』」を調べたところ、
[資料8]に御土居の建築年と総延長距離がわかったが、御土居の地図はなし。
[資料9]掲載の京都の各地図上で御土居の範囲を示す色分けがされており、この本で御土居の境界がわかった。
また御土居が
雑誌「サライ」2015年10月号特集「京都 サライはこう歩く」の中に「第5章 豊臣秀吉の都市計画」があり、そこに「御土居」の記述もあった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 近畿地方 (216)
- 日本 (291)
- 参考資料
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【資料1】浮田典良, 中村和郎, 高橋伸夫 監修『日本地名大百科 : ランドジャポニカ』. 小学館, 1996.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002625644-00 , ISBN 4095231017 (p.1209
「洛中」[京都市] 京都市街地中心部をさす呼称。1591年豊臣秀吉により御土居(おどい)が建設され、以後これに囲い込まれた地域を洛中、外を洛外とする概念が定着した。洛は首都を意味する京洛に由来する。現在の上京区、中京区、下京区のほとんどが含まれる。) -
【資料2】三省堂編修所 編『日本地図地名事典』. 三省堂, 1991.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002131986-00 , ISBN 4385154376 ([資料3]とほぼ同じ記述。
p.1257
「らく 洛」京都、平安京の別称。中国の古都、洛陽になぞらえ、旧市街を洛陽、鴨川を洛水とよんだ。洛外、洛東・洛西・洛南・洛北に分けるが境界は不明確。京都に上ることを上洛、入洛。地方に下ることを下洛といった。
「洛外」京都市の郊外をさす通称 平安京の外側をさす。洛中洛外といういい方がある。
「洛中」京都市外をさす通称。[別称]洛内 平安京の内部をさす。) -
【資料3】三省堂編修所 編, 谷岡武雄 監修『三省堂 コンサイス日本地名事典 第5版』. 三省堂, 2007.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009174169-00 , ISBN 9784385160511 ([資料2]とほぼ同じ記述。
p.1306
「らく 洛」京都市。平安京の別称。中国の古都、洛陽になぞらえ、旧市街を洛陽、鴨川を洛水とよんだ。洛外、洛東・洛西・洛南・洛北に分けるが境界は不明確。京都に上ることを上洛、入洛。地方に下ることを下洛といった。
「洛外」京都市の郊外をさす通称 平安京の外側をさす。洛中洛外といういい方がある。
「洛中」京都市外をさす通称。[別称]洛内 平安京の内部をさす。) -
【資料4】浮田典良, 中村和郎, 高橋伸夫 監修『日本地名百科事典 : コンパクト版』. 小学館, 1998.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002690532-00 , ISBN 4095231114 (p.1389
「洛中」京都市街地中心部をさす呼称。1591年豊臣秀吉により御土居(おどい)が建設され、以後これに囲い込まれた地域を洛中、外を洛外とする概念が定着した。絡は首都を意味する京洛に由来する。現在の上京区、中京区、下京区のほとんどが含まれる。) -
【資料5】楠原佑介, 溝手理太郎 編『地名用語語源辞典』. 東京堂出版, 1983.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001643230-00 (p.646 「らく[洛]」
京都の異称、雅称。中国古代の都洛陽にちなむ。吉田東伍によれば、古くは左京を「洛陽」、右京を「長安」といったが、後に右京がすたれたため、「洛陽」が京都全体の異称となったという。洛中、洛東など接頭語的に使われる。) -
【資料6】森谷尅久 著『地名で読む京の町 上(洛中・洛西・洛外編). PHP研究所, 2003. (PHP新書)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004120093-00 , ISBN 4569626793 (p.4~5「はじめに」で「「洛中」「洛外」も、中世以来、次第に歴史的に使用されてきた、京都の地域分けの方法である。ある時期は、「洛中」「辺土」という区分も用いられていたが、ほぼ十五世紀頃までに「洛中」「洛外」という形でおさまったのである。十六世紀にはいると『洛中洛外図』という言葉にみられるように完全に定着している。」として、現在の行政区のどこが当てはまるかも述べているが、その中身や概念は変化するとも書かれている。
p.53からは「洛中・洛外」として詳しい記述がある。) -
【資料7】森谷尅久 著『地名で読む京の町 下(洛東・洛北・洛南編)』. PHP研究所, 2003. (PHP新書)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004159576-00 , ISBN 4569629202 (「京都の地名を読む」と題して、洛東・洛北・洛南が地名として出てくる。) -
【資料8】小和田哲男, 小和田泰経 著.『大図解戦国史 : 写真、CG、地図、詳しい解説で知る』平凡社, 2014. (別冊太陽. 歴史ムック)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025086134-00 , ISBN 9784582945591 (p.122
「聚楽第」の項目に
「さらに秀吉は、天正十九年から土塁と堀で京都を囲む工事を行った。これは「御土居(おどい)」とよばれ、総延長は二二・五キロメートルに及んでいる。」とあった。聚楽第の絵図や地図、鳥瞰復元CGは掲載されていたが御土居の境界線がわかる地図などはなし。) -
【資料9】新創社, 松岡 満『京都時代MAP 安土桃山編』. 光村推古書院, 2003. (Time trip map : 現代地図と歴史地図を重ねた新発想の地図)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I045925020-00 , ISBN 4838103697 (「京都タイムトリップマップエリア図」に御土居堀の内の凡例あり。
p.51「天正十九年(1591)御土居堀造営」
応仁の乱~織田信長活躍の頃までは「上京・下京」という記述。
p.66「京の町全体を御土居堀(土壁と堀)」で囲んだ」
p.67「プロデューサー秀吉の京都での業績」に「【京都プラン】天正14~19年(1586~1591)御土居堀の造営 京都城下町化プランの総仕上げ。京都の町全体を囲む城壁「御土居堀」によって洛中と洛外を分ける。」と書かれている。
p.72「御土居堀」にも「新しくできた京の町を御土居で囲み、御土居堀の内側を「洛中」、外側を「洛外」に分けた。洛中と洛外の往来は要所に設けた「口」と呼ばれる関署に限定し、外敵からの防衛、洛中の治安維持をはかった。」とある。さらに続けて「御土居堀のその後」として「都の中核だった聚楽第が秀次事件によって破壊された後、御土居も意味を失いつつあった。江戸中期になると洛中をこえて東へと市街は広がり、御土居堀は次第に無用となる。」とある。) - 【資料10】雑誌「サライ」2015年10月号 (大特集「京都 サライはこう歩く」の中に「第5章 豊臣秀吉の都市計画」)
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【資料1】浮田典良, 中村和郎, 高橋伸夫 監修『日本地名大百科 : ランドジャポニカ』. 小学館, 1996.
- キーワード
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- 洛中 洛外
- 平安京
- 洛陽
- 御土居
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000226514