レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/5/25
- 登録日時
- 2014/06/26 16:00
- 更新日時
- 2020/09/07 18:13
- 管理番号
- 長野市立長野-14-007
- 質問
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解決
長野市若穂保科にある延命寺について。長野市誌には保科川の水害を避け宝暦13年に現在地に再建されたとあるが、それ以前の場所が分かる様な資料があるか。
また水害を避けというのは2通りの意味に取れる。予防の為に避けたのか、それとも被害に遭ってという事なのか、それも分かる資料があれば。
- 回答
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「開基時は現保科小学校地籍であったが、再三の水害のため現在地に移寺された。」と書かれた資料があった。
再建の年の数年前寛保2年(1742年)に起きた「戌の満水」を皮切りに、数年間は災害の多い年であったという事や、戌の満水で寺のある村だった保科村も被害を受けている事、保科川水域は水害に弱い地域であった事から、おそらくであるが寺も何らかの被害を受けた可能性があり、その後に再建されたのではないか。
- 回答プロセス
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事前に調べて見たということの事項を元に最初に長野市誌をあたる。
『長野市誌 第4巻』P942に「保科の郷士久保伯耆守(ほうきのかみ)保正の嫡子、保国が豊臣秀吉の家臣になっていたが、文禄4年(1595)7月関白秀次のあとを慕って高野山の奥山寺で自刃した。保正は子保国の菩提を弔うために現保科小学校地籍に延命寺を創建した。その後、同寺は保科川の水害を避け、宝暦13年(1763)現在地に再建された」とある。
以上の事を踏まえて、創建した久保伯耆守(ほうきのかみ)保正と、保科川水域での災害についての両面から検索することにした。
『長野県町村誌 北信篇』p692の延命寺の項と久保伯耆守保正(以後久保保正)の名前あり。
「浄土宗西京東山知恩院の末派なり。文禄四年七月本村久保伯耆守保正開基す。開山僧乗伯宗。
久保保正其子左京大夫保国と共に、諏訪郡長久保より来り、字引澤に住す。保科七騎の一なり。弘治、永禄中保科氏と共に武田氏に降り、後保国豊臣に仕へ、秀次自刃の時殉死す。(43)家傳(かでん)の一刀を父保正に送る。保正其子保国の為に當寺を開基す。」
ネットからの検索で保科正則を筆頭とした保科七騎が武田氏に仕えた同様の記載を発見した為、保科氏関係の資料もあたることにする。
『保科氏八〇〇年史』P74に久保保正の名前あり。
「永禄四年(1561)九月の第四回目の合戦は信玄の弟信繁や山本勘助らが戦死する最大の激戦であったが、この戦いに加わって軍功を挙げた正俊が「保科村七騎」の一騎として信玄から感状を与えられているらしい情況が注目される。「保科村七騎」とは保科弾正を筆頭に久保但馬・海谷与五右衛門・轟(口木・または覇木)玄蕃・山崎刀悦・堀内土佐(堀田大佐)・玉井勘(甚)市の七騎である。(この中の久保但馬保正の子保国は後に豊臣秀吉に仕え、秀次自刃の時に殉死したと伝えられている)。」とある。
これは『新編 信濃史料叢書 第二巻』の「保科御事歴」P274にその事について述べた文と感状の文が確認できる。またこれは長野県が県内の機関が所蔵する資料をデジタル化して公開している長野県デジタルアーカイブ推進事業「信州デジくら」にて写しではあるが確認ができる。
しかしながら久保保正(久保但馬保正)の名は確認できるものの彼が成した事について記されたものについての記述は無い。(保科正則に関して、『保科氏八〇〇年史』p78.9より正則・正俊の生没年に関してあげ、二人の同一人物説もあることを述べている。この事から資料自体にも伝説的な要素も有る為、久保安正に関しても資料が存在していた場合、伝説的要素が含まれ、史実として確定する事が困難である可能性がある)
次に保科川水域での災害の視点から寺について何らかの記載がないか検索した所、寺の再建である宝暦13年(1763)からさかのぼり、寛保2年(1743)に千曲川水域を襲う近世最悪といわれた「戌の満水」が起こっている事が分かった。
保科川ではないが再建の年から近い事や付近の川であることから「戌の満水」を中心とした前後の年に焦点をあて検索した。
『長野市誌 第4巻』p126より戌の満水の記述あり、p137に高井群小出村・保科村の被害の記述あり。
「高井群小出村・保科村(若穂)は保科川の洪水による石高損毛率が七〇パーセント台である。山抜け・川欠け・土砂入りのほか農作物が被害をうけた一毛損毛もある。保科村は川の氾濫による流死者が七人、流れ家が五一軒、潰れ家が二七軒で、被害は関屋川・神田川流域の村々より大きい。」とある。
この事から戌の満水時寛保2年(1743)において保科村自体の被害があった事の確認ができる。更にp147に宝暦・明和・安永期の大洪水の記載があり、宝暦7年(1757)にも千曲川水域で寛保2年と同等の大洪水が発生している事の記載あり。
『長野 第84~87号』の87号、p48に「保科川氾濫と村争い」の論文あり。そこから保科川は大雨によって洪水が起こりやすく、水害にもろい地域だったということが分かる。
『長野市誌 第八巻』p949の農民騒動の項の一文に「凶作の年には秣(まぐさ:馬や牛の飼料とする草)をも食べて露命をつなぐという、天候に大きく左右される山村」という記載があることからも、気象と凶作には極めて不利な大地であることが分かる。
他発見した記録として、
『上高井郡誌』(1974)のp529に「寺院佛堂一覧表」の欄に延命寺の記載あり、そこには由緒として「創立年月不詳開山伯宗」とあるが他の資料との差異については不明。
『長野県 上高井誌 社会編』p929の宗派別寺院の表に、保科久保地区の寺院として名がある。
結果として延命寺そのものの記述は発見できず。しかし戌の満水時他の被害にあった社でも流された資料をかき集めて保持したという記述等があった事や、( http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/id/03OD0621300300-jp )保科川水域の脆さ当時の洪水の起こりやすさを考えると、もし資料が存在していたとしても、当時の水害により流されてしまったのではないかと推測される。
その後『若穂の文化財』P119に延命寺の項を発見。「開基時は現保科小学校地籍であったが、再三の水害のため現在地に移寺された。」とあったので、水害によって移寺された可能性が濃厚になった。
- 事前調査事項
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長野市誌に「久保伯耆守が息子の菩提を弔うために延命寺を創建、その後宝暦13年(1763年)に水害を避け現在の場所に建った」という記載があった。
- NDC
- 参考資料
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『長野市誌 第4巻』長野市誌編さん委員会/編集 2004.1
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『長野県町村誌 第1巻(北信篇)』 松本:郷土出版社 1985
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『保科氏八〇〇年史』 牧野 昇/著 歴史調査研究所 1991
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『新編 信濃史料叢書 第二巻』 信濃史料刊行会 1972
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『長野 第84号~第87号(昭和54年3月~9月)』 長野郷土史研究会 1979
(87号「保科川氾濫と村争い」) -
『長野市誌 第8巻』長野市誌編さん委員会/編集 1997.10
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『上高井郡誌』 上高井郡教育会/編 1974
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『(長野県) 上高井誌 社会編』 上高井教育会/編 国書刊行会 1983
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『若穂の文化財』 若穂文化財調査委員会/編 長野市若穂公民館 1983
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『蕗原拾葉 中巻』 長野県上伊那郡教育会/編 名著出版 1975
(保科氏の活躍等について書かれた「高遠治乱記」「赤羽記」記載しているが久保保正らの細かな記述はない。) -
『長野市誌 第3巻』長野市誌編さん委員会/編集 2001.2
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『寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く』 信濃毎日新聞社出版局/編 2002.8
, ISBN 4-7840-9927-1 - 『天、一切ヲ流ス』 高崎 哲郎/著 鹿島出版会 2001.10 <210.5タ> , ISBN 4-306-09367-0
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『(長野県) 上高井誌 歴史編』 上高井教育会/編 国書刊行会 1983
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『長野 第97号~第100号』 長野郷土史研究会 1981
(99号「保科の古代史」)
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『長野市誌 第4巻』長野市誌編さん委員会/編集 2004.1
- キーワード
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- 長野県 長野市 若穂 保科 延命寺
- 保科正則 久保保正 久保但馬
- 保科七騎 武田 上高井 水害
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000155170