地域資料を確認した。以下は、関連する内容の記述があった資料。
・『市報さいたま 年鑑版(区版)平成24年 1月~12月号』 さいたま市市長公室広報課/編 さいたま市 2013
緑区版 3月 p2~3
明治4年(1871年)廃仏毀釈で福寿院が廃寺となり、明治11年に今の岸町3丁目に新たに不動尊を建てたが、諸般の事情でこの不動尊も取り壊されることになったため、昭和57年(1982年)に浦和博物館に寄贈した、という内容の記述あり。
・『浦和市文化財調査報告書 第16集』浦和市教育委員会/編 浦和市教育委員会 1971.7
p6 仏像2体の所在について、「浦和市岸町三丁目不動尊(旧福寿寺)」とある。
・『浦和の文化財』浦和市教育委員会/編集 浦和市教育委員会 1986.10
p43 福寿寺が江戸時代からあったことが記載されている。
・『さいたま市史料叢書 5 寺院明細帳編』さいたま市総務局総務部市政情報課/編 さいたま市 2006.3
p137 真言宗 不動尊(浦和)
由緒 元岸町福寿寺本尊二有之候処、明治四年九月該寺廃寺后看守者無之ニ付、更ニ十一年八月十九日願済之上、当所堂守再興ス とある。
・『歩いて確かめた私の足立百不動尊巡拝記』高島 英一/著 1993
p137~138 七十二番 岸 福寿寺 神葬墓地は現在調神社の管理になっているとの記載あり。
・『特別展観岸町不動尊の仏像群』 浦和市立郷土博物館 1983 1枚
岸町不動尊が昭和57年諸々の事情により取り壊されたことや、明治4年に福寿寺が神仏分離政策の波に押され廃寺となり、仏像は境内の庚申堂から明治11年に岸町不動尊に移ったことなどがまとめられている。
・『浦和市史 通史編3』 浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1990
p348 表87に 福寿寺 真言・玉蔵院 廃寺 明治4年 とある。
・『埼玉の神社 北足立 児玉 南埼玉』埼玉県神社庁神社調査団/編 埼玉県神社庁 1998.3
p138 天神社の項に、この天神社はかつて福寿寺の管理下にあったことが書かれている。
「この福寿寺は、古くは調神社の祭祀を兼帯で務めていたが、かつて同寺の庵であった月山寺が調神社の別当となってから、当社とのかかわりを強め、化政期(1804-30)には寺僧の私唱であるが当社にちなんで「菅原山」と号していた。ちなみに同寺は、享徳4年(1455)の開山と伝えられ、神仏分離後に廃寺となった」とあり。