幕府の遣欧使節団は、1862年1月から翌年にかけて、当時日本と修好通商条約を結んでいたヨーロッパの6カ国(イギリス、フランス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル)に派遣されました。派遣当時の年号にちなんで「文久遣欧使節団」とも呼ばれています。その主な目的は、上記各国との条約で定められた開港(兵庫・新潟)、開市(江戸・大坂)の実施延期や、ロシアとの樺太国境問題を交渉することでした。
この使節団は、正使の竹内保徳以下、幕府の官吏36名(のち2名加わる)で構成され、その中には、後に明治の言論界をリードすることになる福沢諭吉や福地源一郎、後に外務卿となる寺島宗則(当時の名前は松木弘安)など、明治維新後の日本で活躍した人材もいました。
1862年1月22日(文久元年12月23日)に品川から出航した一行は、香港・シンガポールを経てエジプトを通過し、3カ月弱で最初の訪問国フランスに到達しました。しかし、肝心の開港延期交渉がまとまらず、一行は交渉を留保したまま英国に移動しました。英国での開港延期交渉では、一時帰国中の駐日公使オールコック(Rutherford Alcock)が加わって日本側を弁護したこともあり、使節団は、英国政府との間で、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5カ年延期することを取り決めた「倫敦(ロンドン)覚書」に調印することができました。その後、使節団は他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、1863年1月(文久2年12月)に帰朝しました。
この使節団については、明治初期に外務省が編纂した幕末外交史料集『続通信全覧』の「類輯之部 修好門 竹内下野守・松平石見守・京極能登守使節一件 附録」に記録があります。また、外交史料館では、上記「倫敦覚書」のほか、一行がロシアのペテルブルクで撮影したといわれる写真や、オランダで活版印刷を用いて作成された一行の名簿など、関係史料の原本を所蔵しています。これらの史料は、外交史料館開館25周年を記念して1996年(平成8年)に開催された展示会「外交史料館所蔵物品資料展」や、2009年(平成21年)の特別展示「日英交流事始」で展示されました。