この場合の「世界新記録」とは、その記録が出た時点でのものと、後日国際水泳連盟が公認したものと時期のずれがあるようである。資料1~3より、日本は昭和24(1949)年6月15日に国際水泳連盟に復帰が認められたため、その前年の記録は公認ではなく、最初に公認された記録は、昭和24(1949)年6月名古屋で行われた日大対全東海水上競技の800m自由形の9分45秒6であることがわかる。
しかし翌年度の年鑑である資料4(昭和25年10月1日発行)には、p.252に昭和25(1950)年8月に神宮で行われた日米対抗水上競技大会記録として「八百米自由形①古橋広之進(日)9分42秒8世界新記録」とだけあり、前年に行われたロサンゼルス全米水上選手権については「好記録を続出して」としか書かれていない。
資料1:(昭和24年10月1日発行)p.256に「しかし昭和廿三年度の古橋選手の活躍には物凄いものがあった。(中略)だがこれらの記録も公認にならないという一抹の淋しさがある。」とある。
資料2:p.167の昭和24年の項に、「世界記録承認申請第1号は、6月26日(中略)日大対全東海で古橋の出した800、9分45秒6であった。」とある。
資料3:(昭和24年12月1日発行)p.274に名古屋での日大対全東海水上競技の記録について、「世界水連復帰後初の八百メートル9分45秒6という公認大記録を出し、」とある。
そこで、読売新聞の新聞記事データベース[ヨミダス歴史館]と、他の年鑑を調査したところ、以下のような記述があった。下記読売新聞の記事及び資料5、6によれば、昭和24(1949)年8月のロサンゼルス全米水上選手権の時点では、同年6月の名古屋での日大対全東海水上競技の記録「9分45秒6」を国際水泳連盟に申請中であった。名古屋での記録は同年9月に世界記録として公認された。
また昭和25(1950)年8月に神宮で開催された日米対抗水上競技大会の時点では、昭和24(1949)年6月名古屋での記録「9分45秒6」はすでに公認されていて、それより早い「9分42秒8」を出しているが、ロサンゼルスの「9分35秒5」はまだ国際水泳連盟には公認されていない時期である。ロサンゼルスの「9分35秒5」が公認されたのは、昭和25(1950)年9月7日である。つまり昭和25(1950)年9月7日以降は国際水泳連盟に公認された古橋選手の記録はロサンゼルスの「9分35秒5」が世界新記録となると思われる。調査資料の中で最新の資料7のp.48でも、「古橋広之進氏」の項の「事績」で「昭和24年(1949年)ロサンゼルス全米水泳選手権大会では、400m、800m及び1500m自由形で世界新記録を出し優勝。」と記述している。
なお、資料8~11には、この間の経緯については触れられていなかった。
読売新聞 1949.12.9朝刊 「古橋の世界記録公認 (前略)九月五日イタリアのミラノで開かれた国際水連理事会で古橋選手の(中略)八百メートル9分45秒6(中略)は世界新記録として公認された、なお今夏の全米水上で作った記録は含まれていない」
読売新聞 1950.9.9朝刊 「古橋らの記録公認 パリで開催の国際水連理事会は七日三十二の世界記録を公認したが昨夏古橋橋爪らがロスアンゼレスで出した五つの世界新記録も含まれている(中略)八百メートル自由形 古橋広之進9分35秒5」
資料5:(昭和25年12月1日発行)p.291に、「また朗報としては古橋の二つの世界記録が日本水連の国際水連(FINA)への再加盟正式承認されてから最初のものとして二十四年九月五日イタリアのミラノで開かれた国際水連総会で公認され、国際的なものとなったことである、即ち八百メートル自由形の9分45秒6(24.6.26名古屋日大対全東海)四百メートル自由形4分34秒6(24.7.24神宮、全日本)の二記録であるが、なお古橋以下六名の日本チームが八月ロサンゼルスの全米水上選手権で、米国水上界を震がいさせた九つの世界新記録は期日の関係でこれに含まれていない。」とある。
資料6:(昭和26年10月10日発行)p.291に、「1950年の国際水連の理事会はパリー(9月4日-6日)で開かれ三十二の世界記録が公認されたが、その中で1949年のロサンゼルスの全米水上で古橋、橋爪らの樹立した五つの世界記録も公認された。」とある。