レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年05月29日
- 登録日時
- 2019/07/26 15:52
- 更新日時
- 2019/09/07 10:08
- 管理番号
- 相-190001
- 質問
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解決
平安前期の貴族・源融は、陸奥の塩竈へ行ったことがあるのでしょうか。
『伊勢物語』81段に、河原院邸の中に塩竈を模した池を作ったとありますが、
自身の目で見たことをもとにしたのか、それとも、実際に行った人の伝聞をもとにしたのかを知りたい
- 回答
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次の文献、情報を紹介しました。
・鬼束隆昭著「河原院と塩釜と夕顔巻」『日本文学ノート』10号 通巻32号 1975 p.162-169
p.166~167に「彼は清和天皇貞観六年(八六五)から同十一年(八六九)まで按察使であった。融が陸奥の任地へ行ったという説もあり、塩釜にはその住居のあった所という融が丘という地名もある(中略)またちょっと後になるが寛平七年(八九五)の太政官符に(中略)遙授の官である陸奥出羽按察使、太宰帥等が国府へ赴任しないことを記しているので、恐らく源融も塩釜へは来ていないと思う。」とあります。
・吉川需著「河原院庭園に就て」『造園雑誌』13巻2号 1949 p.7-20
p.9に「融にこの作庭(模写)を思立たしめた直接の動機については、種々の臆説が述べられてゐる。」とあり、
p.9~10にかけてa~cの三説が紹介されています。bの説では「名勝地鹽竈を見んとして能はぬ融の旅行慾を充たすためであったと考へるもの。」とあります。またcでは「融自身會て陸奥に旅行して鹽竈を実見したので、これを再現しようとしたとするもの。」とありますが「陸奥旅行の如きは事実全く無根である。」ともあります。
こちらの資料はJ-STAGEで全文公開されています。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/13/2/13_2_7/_article/-char/ja/)
・『源融公記』全国渡辺会編 融神社 1994
p.9~10の「序」に「陸奥出羽按察使を兼任されている。(中略)この広域行政区域の遥任官として融公には、この地域に特に深い思いを持たれていた事は、河原院の庭園に陸前の風景を模された事に思い及ぶものである。」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 個人伝記 (289)
- 参考資料
- キーワード
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- 源融
- 塩竈
- 河原院
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000259120