・『ジャーナリスト人名事典 明治?戦前編』(資料①)によれば、「井土霊山(いのどれいざん)」は安政2年(1855年)陸奥国相馬生まれ、「仙台師範卒」の「新聞記者、ジャーナリスト、漢詩人」とある。本名は「井土経重(いのど・つねしげ)」、「毎日新聞などの記者としても活躍」と解説されている。
・『昭和文人名鑑』(資料②)の「井土經重」の解説では、「年少郷里の親戚錦織晩香に就き漢學を修め、後ち東京に來り始め毎日新聞に入り、夫より大阪毎日五六新聞等に轉職す」とある。
・『山陽新聞百二十年史』(資料③)には、「沼間守一の門下となり各地の新聞、毎日新聞を経て明治三十一年八月山陽新報主筆となったが、翌年十月中国民報主筆に転ずる」とある。
井土霊山の山陽新報社への入社と退社にふれた「山陽新報」記事は次のとおり。
明治31年8月14日『山陽新報』「入社の詞 井土霊山」 (資料④)
明治32年10月22日『山陽新報』「井土霊山を送る」「社告 井土経重 今般解雇候也 山陽新報社」(資料⑤)
明治32年10月24日『山陽新報』「小生事山陽新報社を退く此段辱知諸君に告く」(資料⑥)
そのほか、山陽新報社への入社から退社までの期間に「(井土)霊山」の記名では次のような記事を寄せている。
『山陽新報』
明治31年9月4日 「青燈夜話」(霊山)
明治31年9月16日「浪華文壇の荒凉」(霊山)
明治32年10月12日「剪燈夜話」(霊山)
明治31年11月20日「範山摸水(乾)」(霊山)
明治31年11月23日「範山摸水(坤)」(霊山)
明治31年11月25日「範山摸水(坤) 寒霞渓(承前)」(霊山)
明治31年11月27日「霞渓話屑」(霊山)
明治31年12月6日「範水摸水の評」(霊山)
明治31年12月9日「小を以て大を説くの法」(霊山)
明治31年12月10日「閑谷黌を観る」(霊山)
明治31年12月16日「地租増徴論」(霊山)
明治31年12月17日「偶感三則」(霊山)
明治32年1月1日「送窮痙愚」(霊山 酔筆)
明治32年1月1日「所感」(井土霊山)
明治32年1月27日「ベ卿の演説を評す」(霊山)
明治32年4月7日「三日たび(一)」(霊山 漫筆)
明治32年4月8日「三日たび(二)」(霊山 漫筆)
明治32年4月9日「三日たび(三)」(霊山 漫筆)
明治32年4月11日「三日たび(四)」(霊山 漫筆)
明治32年4月12日「三日たび(五)」(霊山 漫筆)
明治32年4月14日「三日たび(六)」(霊山 漫筆)
明治32年4月20日「三日たび(七)」(霊山 漫筆)
明治32年5月4日「鐵道瞥見記」(霊山)
明治32年5月5日「鐵道瞥見記(承前)」
明治32年5月6日「政黨死せずんば大盗己まず」(霊山)
明治32年5月7日「政黨死せずんば大盗己まず(承前)」(霊山)
明治32年5月9日「政黨は我が國俗の破壊者なり」(霊山)
明治32年5月13日「島國思想を打破せよ」(霊山)
明治32年5月16日「陰陽聯絡線完成の必要」(霊山)
明治32年5月18日「政黨排斥は一私言に非ず」(霊山)
明治32年5月21日「岡山日報記者に答ふ」(霊山)
明治32年5月23日「政黨は帝國憲法の大罪人なり」(霊山)
明治32年5月28日「政黨新聞論」(霊山)
明治32年5月30日「中國民報を讀む」(霊山)
明治32年5月31日「民報子に答ふ」(霊山)
明治32年6月6日「彼の反對論者の為めに説く」(霊山)
明治32年6月9日「岡山の既往と将来(上)」(霊山)
明治32年6月10日「岡山の既往と将来(下)」(霊山)
明治32年6月11日「偶感四則」(霊山)
明治32年6月17日「模範田の設置」(霊山)
明治32年6月18日「模範田の設置(承前)」(霊山)
明治32年9月3日「三蟠と九蟠の悲景」(霊山)
明治32年9月5日「小串と犬島の所見」(霊山)
明治32年9月6日「災後の牛窓」(霊山)
明治32年9月7日「長濱と尻海の荒凉」(霊山)