レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年05月06日
- 登録日時
- 2017/03/15 14:56
- 更新日時
- 2017/06/07 14:38
- 管理番号
- 埼熊-2016-138
- 質問
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解決
松平忠吉の正室である清泉院の経略と息子の梅貞童子についての資料があるか知りたい。『徳川諸家系譜』に載っていたと思うので、何巻に載っていたか調べてほしい。
- 回答
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『徳川諸家系譜 第二』(続群書類従完成会 1982)
p36に「簾中」と「童形」の項に記載あり。
「簾中 井伊兵部大輔藤原直政女 文禄元年壬辰十月十一日、武州忍城江入輿、寛永四年九月廿八日死、法名清泉院覚窓栄正大姉、御廟所未考」
「童形 慶長二年丁酉正月十日、誕生、○廿六日、早世、葬武州忍持田正覚寺、法名梅貞大童子」
『徳川・松平一族の事典』(工藤寛正編 東京堂出版 2009)
p484-485に「松平忠吉(1580-1603)」の項に「忠吉には梅貞童子という男児がいたが早世したため後嗣がなく絶家となった。」「なお、正室井伊直政の娘(清泉院)は、のち八条院智仁親王に再嫁の話があったがこれを謝して近江国彦根に蟄居した。」とあり。
『国史大辞典 13』(吉川弘文館 1992)
p135「まつだいらただよし(松平忠吉)」の項に「徳川家康の第四子。妻は井伊直政の娘だったが子がなく(後略)」とあり。
『史料徳川夫人伝』(高柳金芳校注 人物往来社 1967)
p109「忠吉君御簾中」の項
「井伊兵部大輔藤原直政の女。文禄元年壬辰十月十一日、武州忍城へ入輿す。寛永四年九月廿八日死す。法名を清泉院覚窓栄正大姉(御廟所未考)という。」
『家康の族葉』(中村孝也著 講談社 1956)
p460-473「第七子女(下)4 松平忠吉」の項
p463「文禄元年二月十二歳のとき武蔵の忍城十万石の領主となった(略)尋で井伊兵部少輔直政の女を娶った。」
p472「忠吉には嗣子がなく、家は断絶した。寡婦となった夫人井伊氏は家康の仰せにより、実家の弟井伊右近大夫直勝の所領上野安中に移って生母と一緒に住することになったが、のちにまた弟井伊左中将直孝の所領近江彦根に移り住した(寛政重修諸家譜・創業記考異)」
- 回答プロセス
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1 質問者調査指定資料の確認
『徳川諸家系譜 第二』(回答資料)
2 参考図書を調べる
3 徳川・松平家関係資料を調べる
『尾張清須城主松平忠吉 関ケ原を駆け抜けた武将特別展』(名古屋市博物館 1993)
忠吉の詳細な記述があるが、妻子関連の記述なし。
p22「東条松平家関係略図」に忠吉の正室として「井伊直政-女」とあるのみ。
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 参考資料
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- 『徳川諸家系譜 第二』(続群書類従完成会 1982)
- 『徳川・松平一族の事典』(工藤寛正編 東京堂出版 2009) , ISBN 978-4-490-10764-7
- 『国史大辞典 13 ま-も』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1992) , ISBN 4-642-00513-7
- 『史料徳川夫人伝』(高柳金芳校注 人物往来社 1967)
- 『家康の族葉』(中村孝也著 講談社 1965)
- キーワード
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- 松平 忠吉(マツダイラ タダヨシ)
- 清泉院
- 梅貞童子
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000211748