①では、江戸時代に用いられていた商船は、しだいに弁才船に統一され、日本海の弁才船の一型式として登場したものが北前船ともよばれたと説明している。また、「「北前」は、「北国」とおなじ意味で、北前船は、日本海の商船の総称としても用いられました。でも、今日では、江戸時代中期以降、蝦夷地(北海道)と大坂をむすんだ買い積み船をさすのが、ふつうです。」という記述もある。船の形態については、「船首が、大きくそりあがっているのが特徴のひとつです。これを見れば、だれでも一目で、北前型弁才船だとわかりました。」と記載されている。荷物を山積みにした北前船(北前型弁才船)の写真も載っている。
②では、江戸時代の河川交通と海上交通路の発達についての説明の中で、北前船の復元模型が紹介されている。「日本海沿岸を航行して、松前(北海道)と大坂をむすび、こんぶ、米、塩、砂糖、わたなどをはこんだ。帆はむしろ帆だった。」と記載がある。
③は、様々な貨物船を貼り絵で紹介しており、北前船について「日本では、江戸時代に、北海道から日本海沿いのいくつもの港へよりながら、瀬戸内海を通って、大坂まで昆布やニシンを運んでいた北前船が有名です。」「神社に奉納された絵馬などで、その姿を知ることができます。」と説明がある。
④は、北前船による廻船業に進出し豪商の地位を築き上げた、加賀の銭屋五兵衛の波乱に満ちた生涯の伝記である。「北前船は、商業の中心だった大坂と蝦夷地を結ぶ江戸時代の長距離貨物便である。それもただ持ち主からたのまれて荷物を運び運賃をかせぐ賃積みではなく、北前船は持ち主が自分で品物を買いつけ、自分の船で目的地まで運び、自分で売りさばくのだ。」「蝦夷地から大坂に向かう便を上り船といい、日本海を通って本州の西のはしの下関から瀬戸内海に入るというルートをたどる。その逆が下り船だ。」「北前船は、冬は休みである。日本海が荒れるからである。蝦夷地と大坂を一往復し、冬の間は、自分の港や上方で船を休ませるというのが、一年のおおよそのスケジュールだった。そのせいもあって、北前船はスピードを競わなかった。」「一度の航海でいかに多くの荷物が積めるか、そのための工夫をこらした。」「安全祈願のため神社に奉納された絵馬にも、甲板にまで小山のように荷物を積み上げた北前船の姿が描かれている。また、船体もどんぐりとよばれる、横はばのある形となった。」等と説明が詳しく、挿絵からも北前船の様子が分かる。