残念ながら、「陸船」や「山車」の絵図等を見出すことはできませんでした。起源に関しては諸説あるようです。
1.中国の祭礼
事前調査事項にある、『中国社会風俗史(東洋文庫151)』p.190下段4行目~p.191上段4行目を確認しましたところ、元宵節(上元節)に用いられた燈火(*ランタン)の様子を詠った詩の数編が紹介されているようです。『東京夢華録』の小正月あたりの記述を確認すると、p.223「十六日」の項に「宣和年間には、十二月から、酸棗門-別名は景竜門-の門楼の上に、宣徳門と同じように、元宵節の灯火がともされ・・・」の一文がありましたが、「陸船」や「山車」につながるような記述は見出せませんでした。
元宵節の燈火の起源については、以下の資料に若干の記載がありました。
『人民中国』620号(人民中国雑誌社 2005.2)「灯籠が輝く夜-元宵節(祭りの歳時記2)」p.57には、「灯籠を掛けることは、元宵節の趣旨である。この風習のルーツとなるのは、漢の武帝が甘泉宮に灯籠を掛け、歌をささげ、夜を徹して「太一」を祭り、安全と健康を祈願したことにある。・・・漢代以降は、灯籠を掛けて、歌や踊りで星を祭ることが風習となった。」と、元宵節に灯籠を掛ける風習のルーツを漢の武帝にまで遡るとしている。
今西凱夫「『三言』に描かれたベン京と臨安の元宵節」(『研究紀要』30号 日本大学文理学部人文科学研究所 1985.3)P.34では、放燈の風習の起源として「宋の洪邁はその『容齊三筆』巻1:上元張燈の絛で、『史記』樂書を引いて、宋代の放燈の風俗が、漢の王室が正月の上辛(最初の辛の日)に甘泉宮で天を祭り、汾陽で地を祭った習慣に起源すると述べている。」とあります。さらに「民間における元宵の風俗は、ほぼ北周の頃に定着したのではないか・・・」という〓(まだれに龍)徳新の説を紹介し、「唐代に入って、ようやくかがり火に代って放燈の行事が定まってきたと想像される。」と書かれています。
詳細は、インターネット上に公開されているPDFファイルをご覧ください。
2.朝鮮の祭礼
『朝鮮歳時の旅』(韓丘庸/著 東方出版 1997.3)によると、「1月の巻」には「燈火」や「山車」を用いる行事の記載はありませんが、「4月の巻」の「燃燈祭」の項(p.67-68)に「旧暦の四月八日は釈迦牟尼の誕生日として、「観灯」を楽しむ。・・・すでにこの習俗は、古くは統一新羅に始まっていた。本格的には、「高麗史」の中では、十世紀の高麗太祖が「灯取り」を「八関会」、「燃燈会」と呼んで、国家的に奨励したという記述が残っている。・・・またこの提灯にも、その燃燈の形に似合った風流な名前をつけて、蓮花燈、鐘燈、船燈・・・」の一文がありました。残念ながら、船燈の絵図等に関する情報は書かれておりません。
以下の資料にも同様の記載があります。
■『朝鮮歳時記(東洋文庫193)』「四月八日」の項(p.87-93)
*p.89には「『高麗史』には、「王宮のある国都から地方郷村にいたるまで、正月十五日前後の二夜にわたって、燃燈の行事をおこなったが、崔■の時四月八日に燃燈するようにした」と書いている。正月十五日に燃燈するのは、本来中国の制度であり、高麗のときこれを廃した。」とある。また、p.88には現代の燈夕の写真が掲載されているが、「陸船」や「山車」までは確認できず。
■『朝鮮歳時記』「四月」の項(P.50-52)
*p.51に「ものの本によれば、新羅時代に、上元の日に看灯をした事実があり、・・・高麗朝は太祖から最後の王恭譲王に至るまで、すべての王が二月には灯を明るくし、・・・高麗中葉の高宗のときから、二月の他に、釈迦の生れた四月八日にも、燃灯会をやることになり、高麗の終りまで続いた」とある。
■『韓国の歳時習俗(韓国の学術と文化14)』「四月」「1 観燈」の項(P.206-207)
*「この燃燈は高麗時代には正月十五日に行っていたが、後に二月十五日または四月十五日に移された。釈迦の誕生日のこのような俗節化は高麗の江華時代に始まったらしい。」とある。