レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017/12/25
- 登録日時
- 2017/12/26 00:30
- 更新日時
- 2017/12/26 00:30
- 管理番号
- 1000000929
- 質問
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解決
第二次世界大戦時の配給制度下での、沖縄の料亭・料理屋の様子について知りたい。
- 回答
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沖縄では、1938(昭和13)年に、石油の切符制が始まった。
食料品については、例えば1940(昭和15)年に米、1941(昭和16)年に鮮魚介類および泡盛、1942(昭和17)年に青果物が配給制になった(参考資料①~⑤)。
当時の様子として、米の配給制度では、食堂などの営業用に割当てがなく休業状態になった(参考資料②)。
また、そば屋が開店休業状態になったことが新聞記事になった(参考資料③⑥)。
上記のために、闇取引が盛んになり、これを取り締まる経済警察が警察内に出来た(参考資料③④⑥~⑧)。
料理屋や料亭も、一般家庭以上に闇商売と緊密にならざるを得なかった(参考資料⑧)。
1942(昭和17)年に、食糧管理法に基づいた沖縄県食糧営団による配給が開始(参考資料⑧~⑩)。
1944(昭和19)年の10・10空襲で那覇首里の大半が灰燼に帰すが、それまで営業していた料亭として、那覇では大和料亭「風月楼」や「花崎」、「美咲」、「四つ竹」などがある(参考資料⑪⑫)。
参考資料:
①
『那覇市史 別巻 那覇市政年表・総索引』(那覇市市民文化部歴史博物館∥編、那覇市、2008.3)
p3-89 「那覇市政年表」で、p47「1940(昭和15).4.22 「沖縄県臨時飯米配給要項」を制定、米穀の配給実施にふみきる(切符制)」の記述がある。
②
『沖縄県の百年』(金城/正篤 [ほか]∥著、山川出版社、2005.3)
p180-190 「総動員体制下の沖縄社会」の項目で、p181-182 「飯米の不足はとくに深刻だった。…昭和十年(一九三五)十一月から台湾米が国家管理に移されて移入量が激減、県内はたちまちコメ飢饉におちいった。県当局は応急措置として山形県などから県産砂糖とのバーターで飯米移入に手を打ったが長くは続かなかった。那覇市内の食堂は営業用の飯米が底をついて休業状態におちいった。県では昭和十五年(一九四〇)四月から「沖縄県臨時飯米配給要綱」を都市地区を中心に実施に移し、切符制による飯米配給が開始された。配給米は一人一日二合に制限され、食堂などの営業用には割当てがなかった。」の記述がある。
③
『那覇市史 通史篇 第2巻』(那覇市企画部市史編集室∥編、那覇市役所、1974.3)
p689-692 「経済統制と市民の生活」の項目で、p690 「沖縄県でも、政府の諸法令に従い、またそれを具体化して、各種の経済統制規則や公定価格を制定、実施している。沖縄県藷類配給統制規則並びに同施行細則(一九四一年・昭十六)、黒糖集荷統制規則(年不明)沖縄県木炭配給統制規則並びに同施行細則(年不明)、蘇鉄並蘇鉄加工品等取締規則(一九四一年・昭十六)、沖縄県鮮魚介配給統制規則(同)、沖縄県青果物配給統制規則(一九四二年・昭十七)等がそれである。…その結果、消費者は米麦の主食から副食物・燃料・衣服・政府専売品の煙草・塩に至るまで「配給」によって購買数量を制限された。そのため、「食堂異変/メリケン粉も飯米もなく開店休業のソバ屋」(『琉球新報』昭和一五・五・七)というようなことがおこり、他方、絶対量の不足で、買い占めや、ヤミが盛んになった。…これに対する当局の対処策は、精神主義的説教と警察によるとりしまりとであった。」の記述がある。
④
『沖縄県警察史 第2巻(昭和前編)』(沖縄県警察史編さん委員会∥編、警察本部、1993.3)
p270-284 「経済統制と警察」の項目で、p282-283 「…日中戦争の長期化に伴い昭和十五年頃から肥料、労力その他生産資材の窮迫によって、米、麦の生産力が減退し、次第に需給の不均衡を生じるようになった。…昭和十五年八月二十日農林省令第七十四号「臨時米穀配給統制規則」、同年十月二十五日農林省令第九十九号「米穀管理規則」を制定して、米穀類の国家管理を行い、供出米の割当、供出の積極化、地主保有米の制限、政府買い上げの拡大等を推進した。太平洋戦争突入後は、外来からの輸入が困難になり、満州への雑穀の依存度を高めたが、船腹不足のため米穀事情は次第に悪化した。そこで、昭和十七年二月二十一日法律第四十号「食糧管理法」を制定公布し、強力な配給制度が相次いで実施された。」の記述がある。
→ 1938(昭和13)年4月1日の国家総動員法からの経済統制について記述がある。
⑤
『泡盛の文化誌』(萩尾/俊章?著、ボーダーインク、2016.1)
p121-126 「戦時統制下の泡盛」の項目で、p125 「一九四一(昭和十六)年、酒造所および小売業者は「沖縄県酒類販売会社」のもとに組み込まれることになり、酒は販売会社の出すキップで売買されるようになった。」の記述がある。
⑥
『沖縄事始め・世相史事典 明治・大正・昭和-事件と暮らし』(山城 善三∥編著、月刊沖縄社、1983.12)
p521 「泡盛も売り惜しみ」の項目で、「首里、那覇両市内の酒屋を中心に泡盛の闇取引のための売り惜しみ、買いだめで県外移出はもとより販売用もないとの風評…昭一五・一・二六・新報」の記述がある。
p521 「ソバ屋も開店休業」の項目で、「飯米の切符制度実施で首里市内の飲食店営業用の飯米がないため、ソバ屋はメリケン粉の購入難とともに殆ど休業状態となり、首里城内食堂も城内観光客の昼食の注文に応ずるだけの飯米がない。昭和一五・五・七・新報」の記述がある。
⑦
『那覇市史 資料篇 第2巻中の6』(那覇市企画部市史編集室∥編、那覇市役所、1974.12)
p259-281 「沖縄県経済統制と食糧事情」の項目で、p262 「「米穀配給統制法」が公布されて主食の米は配給制になるから食糧配給にはいるので、米の販売は禁止するという県からの命令があった。県庁の商工課が商売を監督することとなり、いよいよ統制経済にはいったが、統制経済の公定価格を守らず、ヤミアチネー(闇商売)をする者も出たため、警察は特別に「経済警察」をつくり、闇商売の摘発と防止に乗り出し、商売も役人と官憲の目が光るようになった。米の自由販売を禁じられた米穀卸問屋、中卸商などを主体に食糧営団を組織、米の小売り店は転廃業をするよう商工課からいわれた。」の記述がある。
→ 大正末期から戦後までの、食糧事情について記述されている。
⑧
『沖縄縣史 第8巻各論編7(沖縄戦通史)』(琉球政府∥編、国書刊行会、1989.10)
p108-136 「統制と窮乏の日常生活」の項目で、p111 「食糧営団は食糧管理法の主旨と戦時態勢下の食糧事情から主要食糧の綜合的配給を行なうとともに、非常用食糧の貯蔵につとめる目的で昭和十七年九月から設立準備がなされその年の十一月から事業を開始した。」の記述がある。
p116 「昭和十七年から沖縄戦にいたるまで、沖縄とくに那覇の人々は闇物資を入手することによって生活をした。」の記述がある。
p122-123 「食糧事情が窮屈になると、料理屋が悲鳴をあげた。沖縄の料理屋といえば、純粋なそれの数軒をのぞいて、辻遊郭が、そのすべての役割りを果していたといっていい。一人あたりいくらの会費で何品出すといっても、その品物をあつめるのに苦労しなければならなかった。料理の主体は肉と魚である。そのために、小禄、糸満の闇業者とのつながりが、他の一般家庭より緊密にならざるを得なかった。辻における宴会は昭和十九年十月十日の前日まで、細々ながらおこなわれた。しかし、昔日の面影はなかった(那覇市のある料亭の女将)」の記述がある。
⑨
『沖縄県史料 近代1 昭和18年知事事務引継書類』(沖縄県沖縄史料編集所∥編、沖縄県教育委員会、1978.3)
p240-287 「農務課 食糧配給係」の項目で、沖縄県食糧営団について詳しい記述がある。
⑩
『那覇市史 資料篇 第3巻7』(那覇市企画部市史編集室∥編、那覇市、1981.3)
p76-82 「経済統制の落し子食糧営団 沖縄県食糧営団座談会」
⑪
『昭和の沖縄』(琉球新報社会部∥編、ニライ社、1986.5)
p192-196 「風月楼」の項目で、p193 「…大和料亭「風月楼」という名の“高級料亭”があった。一八九九年(明治三十二年)から一九四四年(昭和十九年)の10・10空襲で焼けるまで、御物城にあった。」の記述がある。
⑫
『那覇市史 資料篇 第2巻中の2』(那覇市総務部市史編集室∥編、那覇市役所、1969.9)
p245 「辻町に春の訪れ 昭和19.12.31」の新聞記事で、「灰壊の中に起ち上がった辻遊郭の復旧は…花崎、美咲及び四つ竹の3料亭の一部に5軒の小屋組みが出来上がり新春早々直ちにこの5軒は営業を開始する運びになった。」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 1 那覇市史 別巻 那覇市政年表・総索引 那覇市市民文化部歴史博物館∥編 那覇市 2008.3 K23.01/N27/[4] p3-89
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2 沖縄県の百年 金城/正篤 [ほか]∥著 上原/兼善∥著 山川出版社 2005.3 K206/O52 p180-190 -
3 那覇市史 通史篇 第2巻 近代史 那覇市企画部市史編集室∥編 那覇市役所 1974.3 K23.01/N27/2 p689-692 -
4 沖縄県警察史 第2巻(昭和前編) 沖縄県警察史編さん委員会∥編 警察本部 1993.3 K317/O52/2 p270-284 -
5 泡盛の文化誌 萩尾/俊章?著 ボーダーインク 2016.1 K58/H13 p121-126 -
6 沖縄事始め・世相史事典 山城 善三∥編著 佐久田 繁∥編著 月刊沖縄社 1983.12 K03/Y44 p521 -
7 那覇市史 資料篇 第2巻中の6 戦時記録 那覇市企画部市史編集室∥編 那覇市役所 1974.12 K23.01/N27/2-2-6 p259-281 -
8 沖縄縣史 第8巻 各論編7(沖縄戦通史) 琉球政府∥編 国書刊行会 1989.10 K201/O52/8 p108-136 -
9 沖縄県史料 近代1 沖縄県沖縄史料編集所∥編 沖縄県教育委員会 1978.3 K201/O52/2-1 p240-287 -
10 那覇市史 資料篇 第3巻7 市民の戦時戦後体験記 那覇市企画部市史編集室∥編 那覇市 1981.3 K23.01/N27/3-7 p76-82 -
11 昭和の沖縄 琉球新報社会部∥編 ニライ社 1986.5 K206/R98 p192-196 -
12 那覇市史 資料篇 第2巻中の2 那覇市総務部市史編集室∥編 那覇市役所 1969.9 K23.01/N27/2-2-2 p245
- キーワード
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- 第二次世界大戦
- 配給制度
- 配給
- 料亭
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000227577